
女:「ねえ……気づいてる?」
男:「ん?」
女:「今日で付き合って3年だよ。」
男:「あ……ほんとだ。早いな。」
女:「私、あなたのこと大好き!」
男:「う、うん...」
女:「『うん』じゃ分からないよ」
男:「いや...大好きだよ」
女:「本当にそう思ってる?」
男:「思ってるよ。」
女:「本当に?」
男:「なんでそんなこと聞くんだよ。」
女:「だって、伝わってこないんだもん。」
女:「私は何度も愛を伝えてきたよ。言葉でも、行動でも。」
男:「……うん。」
女:「でも、あなたからはほとんどない。正直、時々思うんだ。私だけが好きなんじゃないかって。」
男:「そんなわけないだろ。」
女:「じゃあ、どうして何もしてくれないの?」
男:「ごめん...」
女:「付き合ってるのに心がないみたい。」
男:「どうしてそんなふうに思うんだ?」
女:「だって『大好き』って言わされただけでしょ。本当に大切に思ってるなら、ちゃんと行動で示してよ。」
男:「そんなつもりじゃないんだ...」
女:「私がずっとそばにいるって、安心しきってるんじゃない?ニセモノの大好きなんて要らないよ」
男:「そんなことないって。ただ僕は...」
女:「奥手なのかもしれないけど、ちゃんと愛情表現してほしい。」
男:「ごめん....」
女:「そんな態度なら、私が突然いなくなっても知らないからね!」

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大きく関係しています。それどころか直結しています。理解を深めるために、私からも質問させてください。
もし「お金持ちになりたい」と言いながら、毎日お金をドブに捨てている人がいたらどう思いますか?

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そうですね。「言葉」と「行動」が一致していません。
もう一つ聞かせてください。
「エル・カンターレ大好き」と叫びながら、「エル・カンターレは要らない」という行動を取っている人がいたら、どう思いますか?
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主の目には、その人はどう映るでしょうか。
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嘘つきは以前の私のことです。三宝帰依を誓ったのに、美の法門に帰依していなかったからです。
「嘘をついてはいけない」という教えは何度も説かれていますね。

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順番にご説明します。
復活の祈りに参加しているということは、主を求めているからだと思います。
「エル・カンターレ=神は詩う=原曲」ですから、エル・カンターレを求めることは原曲を求めるのと同じ意味を持ちます。
ですから、原曲を求めていない。原曲を聴かない=エル・カンターレを求めていないということです。
心でそう思っていなかったとしても行動を見る限り、客観的にはそのように映ります。
復活の祈りに参加して「エル・カンターレ大好き」といくら叫んでも、原曲を聴かなければ「エル・カンターレは要らない」というメッセージを主に送っているのと同じです。

例えば、浮気を繰り返している人から「大好き」と言われたら、信じられますか?
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どれだけ言葉で「大好き」と叫び、心で「大好き」と思っても、行動が伴っていなければ不誠実ですよね。
身・口・意が一致しなければ、嘘つきだと思われても仕方がありません。
思い・言葉・行為の三つが揃うことが重要であると、正心法語の「仏説・八正道」でも触れられています。根本経典で説かれているほど重要なことなのです。
反省せよ
正命とは
正思なる 意業と
正語なる 語業と
正業なる 身業の
三業を 統合したる 境地なり」
「なる」というのは、「である」ということですから、要するに、「正思である意業、正語である語業、正業である身業」――この三つを統合したる境地が正命だということです。すなわち、「思い・言葉・行為」――この三つともを見事に調和した一日であったかどうかという反省が、正命です。
『仏陀の証明』
また、格はいく集➂『神は詩う』発刊記念対談では、心がないとご指摘されています。
9割以上の人が心がないと言われているわけですから、私もあなたも主から見れば心がないと判定されているんです。
「復活の祈りに参加しているから、私は大丈夫」なんていう考えは甘いです。
復活の祈りは必要ですが、心がない人の祈りは主に届くと思いますか?
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心がない人の祈りは届きません。なぜなら、心が清くなければ祈りは届かないという法則があるからです。
『祈りの原理』
心がなければ、心清いという条件を満たしていないので祈りは届かないわけです。
心がある状態で祈るから意味があります。心がない存在が集まって祈ったところで、それはロボットが手を合わせて祈りのポーズを取っているのと大した違いはないでしょう。

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OSが存在しない状態ですから、神の御心を自分自身に再インストールするしかありません。
例えば、楽曲「悲しみから喜びへ」では「人々の心に寄り添うことが大切」であると説かれています。私もその通りだと思います。
けれど、9割以上の人が心なし。
「心がない人の心に寄り添え」と言われているわけです。存在しない心に寄り添うことはできませんよね。
だから最初は心がある存在、つまり神の心に寄り添うことが出発点になります。
神の本当のお気持ちは文章に残すことができません。本音という「音」を残せるのは音楽だけです。お気持ちが込められた原曲を聴くことで神の心に触れ、失った心を取り戻すことができます。
STEP1:原曲で神の心に寄り添い、失った自分の心を取り戻す
STEP2:原曲、楽曲を伝えて、人々に失った心を取り戻してもらう
STEP3:人々の心に寄り添う
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原曲研修は単に歌を聴くことではありません。原曲=エル・カンターレである以上、主を求める行為そのものです。
「どちらかといえば原曲研修は受けた方がいいよ」というレベルの話ではありません。
これは数ある研修の中の一つではなく、主の御存在が自分にとって必要かという、信仰の中核を問うものだからです。
一人で静かに考えてみてください。あなたにとって、エル・カンターレ(神は詩う)が、どんな方であるのかを。
1:居なくても構わない存在ですか?
2:どちらかと言えば居てほしい存在ですか?
3:絶対に居てもらわないと困る存在ですか?
この問いに対する答えが3番の場合は行動に現れるはずです。もし原曲を聴かないという選択をされるのであれば、「エル・カンターレは要らない」という行動を取ったことになります。
かつて私自身がそういう行動を取っていました。
「あなたは必要ない」という行動をされたら、「では復活しません」となるのが自然な流れでしょう。
そんなことすらも分からない愚かな人間でした。
自分には「心がある」と思い込んでいたし、おかしなことをしているという自覚もありませんでした。考えない人間の典型だったわけです。
私が考える人間であったならば、もっと早く気づいていたはず。主の御名という一番大事なものを意味もなく、エル・ミオーレから、エル・カンターレ(神は詩う)に改名されるわけがないと。
だから、私たちにとって、神は詩う(原曲)は絶対に必要なものです。
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私も感性に優れているわけではないので、お気持ちは分かります。ただ感性がないのではなく、原曲に対して与える愛が足りていないのだと思います。
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仮に目の前に「原曲さん」という人がいると想像してみてください。あなたはその人を理解するために一体どんな努力をされていますか?
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好きなアーティストの歌を聞くのであれば、感性だけで楽しむのもいいでしょう。でも神の詩はこの世の音楽と違います。
確かに感性・悟性は重要ではありますが、それだけで聴くものではないのです。
なぜなら、もし感性だけで聴くものであれば研修資料は配られないはずです。
資料には関連する御法話などが掲載されていますが、それらがあった方が理解が深まるという意図によるものだと思います。
つまり、感性・悟性の土台として、知の部分も必要ということです。
私も以前は「感性や悟性がないから」という言葉で逃げていましたが、自分がまともな教学をしてこなかったことに気づきました。美を学ぶことを通して、真・善の理解が甘かったことが判明したのです。
原曲さんに対する与える愛の実践が足りていませんでした。
例えば、本当に大好きな人に会うことになったら、様々な準備をしますよね?
相手が喜んでくれる自分になろうとします。足りない部分があれば身につけようとします。
自分の考えや行動を変えてまで、これからも一緒にいたい相手なのか。本物のエル・カンターレ大好きなのか、ニセモノの大好きなのかが問われています。
原曲さんに会う日は、エル・カンターレに会う日でもあります。
もし主とデートすることになったら、事前に準備をすると思います。原曲さんに対しても同じです。
歌詞の分からない言葉を調べる。何度も聴いて歌う。関連経典を読み込む。天使のモーニングコールで曲を解説していないか確認する。映画の曲であれば映画を見直すなど。
これらは感性がなくてもできるはずです。
主は言い訳を嫌っていました。だから私も言い訳したくありません。
「感性、悟性がないとしても、自分にできる努力はあるはず」と思って、足りない知の部分を埋めるためにやっています。
ぜひ原曲研修の法談で先輩方にも質問してみてください。どうやって原曲を学んでいるかを聞いてみることをおすすめします。
私は死んだ。
気がつくと、もう地上にはいなかった。
それでも、まだ伝えたいことがあった。
言い残した言葉があった。
私は必死に語りかけた。
けれど誰も振り向かない。
できるのは、インスピレーションを降ろすことだけ。
ある人の胸に、かすかに思いが届く。
「この本を今度、読んでみよう」
だが、その多くはすぐに忘れられる。
忙しさの中で流され、かき消される。
たとえ思いが届いても、行動する人はほとんどいない。
私は思い出した。
地上にいた頃のことを。
あのときは、自分で本を手渡すことができた。
SNSやブログで発信することができた。
映画に誘うこともできた。
今はそれもできない。
ようやく気づいた。
地上にいて直接影響を与えられることが、どれほど大きな力だったのか。
神の詩や天御祖神について、自分の言葉で伝えられることが、どれほど尊いものだったのか。
どうして、もっと真剣に伝えなかったのだろう。
どうして「また今度でいいや」と先延ばしにしたのだろう。
どれだけ後悔しても時間は戻らない。
悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。
そして、もう一つの事実に気づいた。
私は多くの愛に守られていた。
天国にいる人々は何も見返りを求めずに、ただ祈ってくれていた。
私が美の伝道師として使命を果たすことを。
何度もインスピレーションを降ろしてくれた。
けれども私は気づかなかった。
欲に心を曇らせ、忙しさを理由にし、大切な声を聞き流していた。
たとえ気づいたときでも、「今はいいや」と思って人々に伝えなかった。
私はどれほどの愛を無視して生きてきたのだろう。
その事実を知ったとき、胸が裂ける思いだった。
深い後悔に包まれながら、目が覚めた。
夢だったのだ。
もう一度、地上で伝える機会が与えられた。
同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。
行動しないのであれば、地上に生まれた意味はない。
地上にいる人間にしかできないことがある。
言葉を届け、誰かの手を引き、未来を少しだけいい方向に変えることができる。
この世において、それ以外に悔いなどあろうはずがありません。この世において、他の諸々の欲望を遂げられなかったようなことで、悔いが残るはずがありません。悔いが残るとしたら、「自分がこの世に数十年生きておりながら、努力すれば救うことができた人を救えなかったという事実」――これ以外にありません。
『仏陀の証明』

