最後の力を振り絞って石段を登り切った。
境内は落ち葉が積もり、草が生い茂っている。
長い間、誰も訪れていない場所。
だが、神聖な雰囲気が漂っていた。
境内をゆっくりと歩く。
社殿の陰で何かが、動いた。
人影?
「誰だ!」
警戒しながら近づいた。
倒れている人がいた。
痩せ細り、衰弱している。
胸がわずかに上下している。
「まさか……」
駆け寄った。
その顔を見て、息を呑んだ。
「相川教授ですか?」
体を揺すった。
「教授! 大丈夫ですか!」
教授がうっすらと目を開けた。
「あなたは……」
「天城真です。沙織さんに依頼されて探していました」
教授の目に涙が浮かぶ。
「よく来てくれた」
水筒を取り出し、教授に飲ませた。
ゆっくりと水が喉を通っていく。
「ありがとう」
「ここで、どれくらい?」
「分からない。一週間か、それ以上か」
「食料は三日前に尽きた。水だけは雨水を集めて」
「よく生き延びました」
「ここは聖域だから。でも一歩でも鳥居の外に出れば、奴らが襲ってくる」
教授の目に恐怖の色が浮かぶ。
「何度も試したが、その度に追い返された。もう諦めるしかないと思っていた」
涙が頬を伝う。
「君もお多福に会ったのか?」
「はい」
教授は複雑な表情を浮かべた。
「あの妖怪に全てを暴かれ、自分の醜さを見せられた」
「俺も同じです」
二人ともしばらく黙っていた。
「立てますか?」
手を差し伸べた。
教授の足元がふらついている。
体を支えながら一緒に歩く。
「拝殿へ行きましょう」
「ここに来た理由、答えがあるはずです」
二人は扉の前に立った。
古い木の扉。
ひび割れ、色褪せている。
だが、まだしっかりしている。
扉に手をかける。
ギィィィ……
重い音を立てて扉が開く。
内部は薄暗い。
わずかな光が、隙間から差し込んでいる。
二人は中へ入った。
中央に拝殿がある。
手を合わせてしばらく祈る。
すると光が漏れ始めた。
金色の神々しい光。
光が強くなり、二人を包み込む。
温かく優しい光。
その中で歌が聞こえてきた。
歌が心に流れ込んでくる。
この大和の国を 夢の花開く国にせんと 来たりし吾れ〜♪
美しい調べが体中に染み渡っていく。
涙があふれてきた。
なぜ泣いているのか分からない。
そういえば、ホツマツタヱにも記されていた。
大和の国は神々の歌によって創られてきた。
天地創造も国造りも全て歌とともにあった。
『まずはじめに調べありき』なのだ。
調べに合わせて、自然と二人とも歌っていた。
そして懺悔した。
「俺は醜かった……」
「自分がもらうことばかり考えていた」
「与えることなど考えたこともなかった」
「心からの感謝などしていなかった」
ただ涙が流れていく。心が浄化されていく。
大の大人が子供のように泣いた。
だが、恥ずかしくはなかった。
むしろ、清々しかった。
偽りの自分はもう要らない。
歌うことで心の中の仮面が割れていく。
成功者を演じる仮面。
自分を良く見せようとする仮面。
仮面が砕け散る音が心の中で響いた。
幼子のようなありのままの自分。
「これが本当の美しさなのか」
中身がない形式だけの美とは全く違う。
歌がゆっくりと薄れていく。
だが、その余韻は残っている。
心の中に深く刻まれている。
光が消え夜の森に戻った。
だが以前とは違って感じられる。
星の光の美しさ。
木々のざわめきの心地よさ。
風の音のリズム。
世界は神の音楽によってできている。
「神は詩う…」
その言葉が心に染み込んでいく。
「創造神が私たち人間を愛してくださっているのを感じました」
「天城さん、私は間違った思いで生きてきた」
教授の声が震えた。
「三十年以上、研究してきたが動機が不純だった。認められたかっただけ」
教授は顔を覆った。
「真実のためだと自分に嘘をついていた」
教授の肩に手を置いた。
「でも、気づけたじゃないですか。それが大切なんです」
教授はこちらを見た。
「俺も同じです。醜かった。利益ばかり求めていた」
「世のため人のために生きたことなど無かった」
「でも今、気づくことができた。ここから変わるしかない」
教授の目に光が戻ってきた。
「変われるのか」
「ええ」
力を込めて言った。
「今から変わりましょう」
教授に手を差し伸べる。
「君がいなければ、私はここで朽ちていた」
「教授がいなければ、俺はここまで来れなかった。お互い様です」
「ありがとう」
神の詩を聴き、共に歌って涙を流し、語り合うことで二人は変わり始めていた。
天御祖神神社を出ると、森の中に風が吹いた。
冷たい風。だが清々しい。
「お多福はどうなったんでしょう」
「分からないが、周囲にはいないようだ」
教授は考え込んだ。
「おそらく私たちが目覚めたからだ」
「俺たち二人が変わっただけで、お多福は消えるんですか?」
「いや」
教授は首を振った。
「人々にも気づいてもらわなければならない」
「だからこそ、真実を伝える必要がある」
教授はこちらを見つめた。
「感謝し、与え、精進する心が美しいことを」
教授の目に強い光があった。
「それが私たちの使命だ」
そうだ。これが本当の目的だったのかもしれない。
成功のためでも、名声のためでもない。
真実を伝えるため。
人々を目覚めさせるため。
「でも信じてもらえるでしょうか」
「信じない人の方が多いだろう」
教授は正直に答えた。
「嘲笑されるかもしれない。学会からも社会からも、否定されるかもしれない」
「それでも伝えなければならない」
教授は力強く言った。その言葉に勇気が湧いてきた。
「分かりました。一緒に伝えましょう」
教授は微笑んだ。
二人は山を降りる方向へ歩き始めた。
夜の森は暗い。
だが、もう恐れはない。
まだ自分の中に醜い部分は残っているだろう。
でも気づくことができた。
そして変わろうとしている。
少しずつでも歩き続ければ良い。
月が雲の間から顔を出した。
森の中が明るくなる。
道が見える。
「行こう」
二人は歩き続けた。
新しい自分になるために。
新しい世界を作るために。
真実を伝えるために。
進むべき道は見えている。
星々が道を照らしている。
まるで導かれているように。
二人は山を降りていった。
山を降り始めて、どれくらい経っただろうか。
教授の体力は限界に近い。
何度も休憩を取りながら、ゆっくりと進む。
「もう少しです」
「ああ……」
教授の返事は弱々しい。
だが、足は止めない。
森の切れ目が見えた。
登山口だ。
「着きました!」
視界が一気に開ける。
教授を木陰に座らせ、駐車場へ走った。
エンジンをかけ、教授の元へ。
助手席に教授を乗せる。
「さあ、町へ」
アクセルを踏んで山道を降りていく。
舗装された道路に出ると、ようやく安堵した。
「助かった……本当に」
教授が呟いた。
「まだ終わっていませんよ」
前を向いたまま答えた。
「これからです」
「そうだな」
教授は窓の外を見た。
「戦いはこれからだ」
車は町へ向かって走り続けた。
町に着くと、すぐに病院へ向かった。
教授を医師たちに引き渡す。
「脱水症状と栄養失調。すぐに点滴を」
教授は処置室へ運ばれていった。
携帯電話には着信が何十件も入っていた。
沙織からだった。
すぐに電話をかけた。
「天城さん!父は……父は無事ですか?」
「ええ。今、病院で治療を受けています」
「本当ですか……良かった……」
沙織の声が涙声になった。
病院名を伝えて電話を切った。
沙織が病院に駆けつけた。
「父は?」
「処置室です。しばらくすれば、一般病棟に移されるはずです」
「そうですか……」
沙織は安堵の表情を浮かべた。
そして深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
沙織の目から涙が溢れた。
「諦めかけていました」
「俺は何もしていませんよ」
首を振った。
「教授が諦めなかったから」
その時、看護師が現れた。
「相川誠さんのご家族の方ですか?」
「はい」
「病室へどうぞ」
沙織は看護師について行った。
天城は一人、待合室に残された。
窓の外を見ると、朝の光がまぶしい。
病院の外に出て、新鮮な空気を吸う。
駐車場を歩いていると視線を感じた。
目の前の空間が歪み、お多福が現れた。
だが以前と違う。
顔が前より小さくなっている。
笑顔が歪んでいる。
声も弱々しい。
「お前たちが変わったせいで、私の力が少し減っている」
こちらを睨んでくるが、その目に力はない。
「だが、まだ終わりではない」
「お前たち二人が変わっても、人々は変わっていない」
「天照大神への信仰は続いている」
お多福の笑顔が少し戻った。
「だから、私は消えない」
「そうかもしれない」
一歩、前に出た。
「でも、俺たちは真実を伝える」
お多福の顔が歪んだ。
「誰が信じようか。天御祖神の存在を」
その言葉に心が揺れた。
確かに、信じてもらえないかもしれない。
嘲笑されるかもしれない。
「だがそれでも伝える」
決意を込めて言った。
「たとえ歴史を捻じ曲げようとも、真実は絶対に死なない」
お多福は、しばらくこちらを見つめていた。
「では、やってみなさい」
お多福の声が冷たい。
「あなたたちが失敗するのを見届けてあげます」
「人々が再び欲望に溺れたら私は戻ってきます」
お多福は消えた。
駐車場に自分だけが残された。
だが、心は穏やかだった。
脅しはもう怖くない。
病室に戻ると、教授は点滴を受けていた。
沙織がベッドの横に座っている。
教授がこちらを見た。
「天城さん、少し話せますか?」
目配せすると、沙織は席を外した。
「お多福に会いましたよ」
教授の目が鋭くなった。
「奴は何と?」
「俺たちが失敗するのを見届ける、と」
教授は鼻で笑った。
「失敗? 試してみることに失敗はない」
「伝えるか、伝えないかだ」
教授が、こちらを見つめた。
「天城さん、記者会見をしよう」
「記者会見……」
教授は力強く頷いた。
「全てを公表する」
「ホツマツタヱの真実」
「天御祖神の存在」
「そして、お多福のこと」
「でも、信じてもらえるでしょうか」
「分からない」
教授は正直に答えた。
「おそらく、ほとんどの人は信じない。学会もマスコミも冷笑するだろう」
「それでも?」
「それでも、だ」
教授の目に強い光があった。
「種を蒔くのだ。いつか必ず、芽が出る」
その言葉に勇気が湧いてきた。
「分かりました。一緒にやりましょう」
二人は握手を交わした。
教授は三日間入院した。
その間、二人で記者会見の準備を進めた。
沙織も心配していた。
「本当に大丈夫ですか?父がまた危険な目に」
「もう逃げない。これが私の使命だから」
沙織は涙を堪えて頷いた。
「分かりました。でも、無理はしないでください」
「ああ」
三日後に教授は退院した。
体力はある程度回復している。
二人は記者会見の会場へ向かった。
借りた会議室に記者たちが集まっている。
大手メディアは来ていない。
地方紙とフリーランスの記者だけ。
それでも良い。
一人でも聞いてくれれば。
「始めましょう」
会見場の扉を開けた。
会議室に入ると、記者たちの視線が集まった。
カメラを構えている者もいる。
前方に長机と椅子が二つ。
教授と並んで座った。
「それでは始めさせていただきます」
教授が口を開いた。
「私は東都大学の相川誠です」
「隣にいるのは歴史調査員の天城真さんです」
記者たちがメモを取り始める。
「本日は重大な発表があり、お集まりいただきました」
教授は一枚の資料を取り出した。
「これはホツマツタヱという古文書に関する研究結果です」
興味を示している者もいれば、懐疑的な表情の者もいる。
「ホツマツタヱは、『古事記』『日本書紀』よりも古い時代の歴史を記録した文献です」
教授は淡々と説明を続けた。
「そこには、現在の歴史書とは異なる内容が記されています」
「例えば、天照大神は女神ではなく男神でした」
ざわめきが起こった。
記者の一人が手を挙げた。
「それは、学会で認められているのですか?」
「いいえ」
教授は正直に答えた。
「ではなぜ今日、発表を?」
「それが本題です」
教授は深呼吸した。
「ホツマツタヱが偽書とされたのは、意図的な隠蔽工作があったからです」
「誰が何のために?」
別の記者が尋ねた。
教授はこちらを見た。
交代する合図だ。
「私が説明します」
天城はマイクを引き寄せた。
「ホツマツタヱには、天御祖神という創造神が登場します」
「この神は、『古事記』『日本書紀』には出てきません」
「なぜなら、歴史から消されたからです」
記者たちの表情が険しくなってきた。
「消された?誰に?」
「お多福という存在に」
「おたふくって、あの福を招くおかめ面の?」
記者たちが顔を見合わせる。
「はい。お多福は妖怪です」
重い沈黙。
「妖怪?本気で言っているのですか?」
「本気です」
まっすぐに答えた。
「お多福は長きに渡って歴史を改ざんしてきました」
記者たちの冷笑。
「お多福の共犯者も突き止めました」
「誰なんですか?」
「それは……私です」
震える声で言った。
「そしておそらく皆さんも。お多福は人々の現世利益を求める心のエネルギーを糧にしてきました」
「私たち全員の醜い欲望がお多福に力を与えてきたのです」
「全ての人間が共犯者だって?」
記者たちの表情が完全に変わった。
興味から軽蔑へ。
一人の記者が立ち上がった。
「これは学術的な発表ではなく、オカルト話ですか?」
「真実です」
教授が割って入った。
「私たちは実際にお多福と遭遇しました」
「証拠は?」
「目撃証言だけです」
「ですが、祭神改変などの証拠は資料に記載しています」
メモを取るのをやめている記者もいる。
「かつて迷信とされたものが、今は科学とされることもある」
「天動説が常識だった時代、地動説のガリレオは迫害された。迷信と科学の境界線は時代によって変わる」
ほとんどの者が会場を後にした。
最後まで残ったのは三人だけ。
地方紙の記者とフリーランスの記者二人。
三人の記者を前に、一息もつかず話し続けた。
こちらの熱意に動かされたのか、記者たちは静かにペンを動かし始めた。
* * * * * *
「本日はありがとうございました」
教授が深く頭を下げた。
彼らもやがて席を立った。
会議室には二人だけが残された。
「失敗でしたね」
教授は首を振った。
「いや、伝えた。それで良い」
翌日。いくつかのメディアが記者会見のことを報じた。
だが、その扱いは小さかった。
地方紙の片隅。
ネットニュースの末尾。
しかも、内容は冷たいものだった。
『古代史研究者、妖怪陰謀論を主張』
『ホツマツタヱ研究者、学会から孤立か』
『オカルト研究と学術の混同に警鐘』
コメント欄は、さらに辛辣だった。
「頭がおかしい」
「学者の質が落ちた」
「妄想」
「カルト」
一つ一つ、読んでいく。
胸が痛い。
だが、予想していたことだ。
教授に電話をかけた。
「教授、記事を見ましたか?」
教授の声は、落ち着いていた。
「ああ。気にするな」
「でも……」
教授の声が優しくなった。
「信じるかどうかは、相手が決めることだ」
その言葉に少し救われた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。君のおかげで、ここまで来ることができた」
電話を切って窓の外を見る。
「これで良かったのか?」
自問するが答えは出ない。
ただ、やるべきことをやった。
それだけは確かだ。
数日後。教授から連絡があった。
「学会から、除名処分の通告が来た」
教授の声は、意外にも明るかった。
「理由は学問的信頼性を損なう発言、だそうだ」
「そんな……」
「気にするな」
教授は笑った。
「もともと、学会など信用していなかった」
「真実を追求する場ではなく、権威を守る場だからな」
その強さに驚いた。
「教授は後悔していませんか?」
「後悔はない。初めて自分に正直になれた。本当の意味で研究者になれた気がする」
その言葉が胸に響いた。
「天城さんはどうだ?」
言葉を探した。
「俺も後悔はありません」
「今までお金や名声ばかり求めていました」
「でも、今は違います。真実を伝えられた。それだけで満足です」
「なら良かった」
教授は満足そうに答えた。
電話を切った後、しばらく考えた。
心は以前よりも、ずっと軽い。
偽りの自分を捨てたからだろうか。
「これが本当の自分か。悪くはないな」
一週間が経って、記者会見の騒ぎも収まっていた。
もう誰も話題にしていない。
忘れ去られたのだろう。
だが、メールが届いた。
差出人は知らない名前。
件名は、『記者会見について』
『天城様
記者会見の動画を見ました。
最初は正直に言って信じられませんでした。
妖怪? そんなものが存在するわけがない、と。
でも、何度も見返すうちに、気づいたことがあります。
私も神社に行くとき、いつも自分のことばかり願っていました。
合格祈願、恋愛成就、商売繁盛。
全て私利私欲の願いを叶えるため。
自分の心の醜さに初めて気づきました。
お多福が存在するかは私には分かりません。
でも、あなたのメッセージは私の心に届きました。
ありがとうございました。
これからは、感謝の心を持って生きていきます。』
メールを何度も読み返した。
たった一人だが届いた。
胸が熱くなった。
たった一人でも種は芽を出した。
いつか大きな木になる。
そして、返信を書いた。
『メッセージ、ありがとうございました。
あなたのような方がいることが、私たちの希望です。
一人一人が変われば、世界は変わります。
少しずつで良いのです。
一緒に歩んでいきましょう。』
送信ボタンを押した。
窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。
空がオレンジ色に染まっている。
世界は美しい。
その美しさに、今まで気づいていなかった。
「ありがとう」と、小さく呟いた。
誰に向けてでもない。全てに向けて。
涙が一筋、流れた。
自分の心が変わった。
それが何よりの報酬だった。
冬が過ぎ、春が来た。
あの記者会見から半年が経っていた。
天城の生活は以前とは違うものになっていた。
朝、目覚めると、まず生かされていることを神に感謝する。
朝食を作る。
シンプルな食事だが、一つ一つに感謝しながら食べる。
米を作ってくれた人。
野菜を育ててくれた人。
全ての人に感謝。
仕事に対する姿勢も変わった。
認められようとすることもなくなった。
相手の幸せに貢献できるように、目の前のことに誠実に向き合う。
以前は外の景色を見ても何も感じなかった。
仕事のこと、お金のこと、それしか頭になかった。
だが、今は違う。
世界の美しさが見える。
記者会見の動画の再生回数が少しずつ増えている。
コメント欄には相変わらず批判もある。
だが、こんなコメントも見られるようになった。
『考えさせられました』
『得ようとするから苦しくなるんですね。自分の祈りを見直します』
『感謝、大切ですね』
『神社に行く意味、初めて理解できた気がします』
教授は大学を辞めた後、自宅で研究を続けている。
「天城さん、良いニュースがある」
ある日、教授から電話があった。
「何ですか?」
「小さな出版社だが、ホツマツタヱの研究書を出してくれるそうだ」
「それは良かったですね」
「まだ、終わっていない。種をまき続けよう」
池上からも連絡があった。
「天城さん、私も山を降りることにした。もう、隠れていても仕方ない」
池上の声は明るかった。
「東京に戻って、また修復の仕事を始める。ホツマツタヱの研究も続ける。君たちが勇気をくれた」
変化が少しずつ広がっている。
静かに、だが確実に。
天城は再び山へ向かった。
山道を登るが以前と違って心は軽い。
恐れも不安もない。
苔むした古い鳥居をくぐる。
その瞬間、神聖な空気に変わった。
石段を一段一段、登る。
頂上に社殿がある。
拝殿の前で立ち止まる。
賽銭を入れ、手を合わせる。
「天御祖神様、ありがとうございます」
「半年前の出来事のおかげで、私は変わることができました」
「まだ完璧ではありません。時々、醜い心が顔を出します」
「でも、自分で気づけるようになりました」
優しい春の風が吹いた。
「人々も少しずつ変わり始めています。ほんの少しですが種は芽を出しています」
「今はあなたの夢を叶えることが、私の夢になりました」
「この大和の国を夢の花開く国にします。必ず桃源郷にしてみせます。どうか見守っていてください」
風がまた吹いた。
まるで答えてくれたように。
手を合わせたまましばらく佇んでいた。
温かい静寂。
私はもう孤独ではない。
八百万の神々の頂点に位置する存在。
大和の国の最高神、天御祖神が近くにいてくださる。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げて社殿を後にした。
鳥居をくぐり、山を降り始めた。
山を降りながら、天城は考えていた。
失ったもの。得たもの。
失ったものは多い。
成功、名声、仕事、友人、社会的地位。
全て失った。
だが得たものは、もっと大きい。
本当の自分。
感謝する心。
与える心。
精進する心。
そして心の平安。
それが何よりも大きい。
麓に着いた。
車のエンジンをかける前にふと思った。
この経験を手記にすれば、今より多くの人に届くかもしれない。
手記の構想をノートに書き始めた。
————————————————————
『以前の私は、刹那的な快楽と利益だけを求めていた。もっとお金が欲しい、もっと食べたい、もっと認められたい……もっと!もっと!もっと!
自分のことばかり優先して、世のため人のために生きてこなかった。
人目がある時は善人面をして良い人を演じる。でもそれは本当の私ではない。醜い自分を隠し、仮面を被って別の人間になっていただけだ。
自分一人になると、私の心の中にはノイズが鳴り響いていた。
心の中で何を考えても相手に分かるわけではない。嘘をついてもバレなければいい。思想・信条の自由があるから、どんなことを考えても構わない。そんな風に思っていた。
でも神様は、私の思いも行動も全てお見通しだった。
妖怪なんて漫画やアニメの話だと思っていた。でも、妖怪は実在した。
人間は誰もが心に醜さ(妖怪性)を抱えている。
自分の中の楽して儲けたいという考えが、人を騙してでも信心のエネルギーを集めたいというお多福を呼び込んでいた。
妖怪性が強くなると死後、人間の世界には還れない。なぜなら、あの世は思いだけの世界だからだ。思っていることがそのまま現実となる。
心を美しくすることの重要性はホツマツタヱでも説かれている。
マフツの鏡は真実の姿を映す。以前の私であれば醜い心を反映した妖怪が映し出されたであろう。
外見だけの美は、神には通用しない。
私たちが変わらない限り、姿を変えてお多福は存在し続ける。
私はお多福に語りかけたい。
あなたは歴史を改ざんし、都合の良い部分だけを人々に見せたかったのだろう。しかし、何も隠す必要はないのだ。
良い点も、悪い点も全部さらけ出せばいい。恥ずかしいことではない。
自分の歴史も、人類の歴史も明るみにすることで後世への教訓になる。
たとえ失敗しても反省し、新たな人生を歩む姿は美しい。良く見せようとしてうわべだけ整える方が醜い。
この国には八百万の神々がおられ、その中には尊敬すべき方もいる。しかし、その神々も天御祖神から生み出された子孫である。
私たちの魂の親は、お一方しかおられない。
池上さんは言っていた。「感謝や信仰告白でお多福の呪いが弱くなる」と。
では、具体的にどうすれば良いのか。
迷った時には、お多福の立場で考えてみよう。
「もし自分がお多福だとしたら、どんなことをされたら嫌だと思うか?」
まずは霊的パワーの兵糧攻め。お多福は人々の欲望をエネルギー源としている。ならば、執着を捨ててエネルギーの供給を断つことだ。
次に、ホツマツタヱを伝えることによって天御祖神の栄光を弘め、天照大神が男神であることを明らかにする。
さらに、神の詩を歌い、同志と語ることで心の醜さを無くし、感謝を深めていく。
「自分は何も悪いことはしていない」と罪の意識を感じない人が大多数だと思う。私もそうだった。
しかし、この世で犯罪に問われなくても、神の法に背くことはある。
各個人に悪意がなくても全体では悪になる場合があるのだ。
何世紀にも渡る隠蔽工作は、お多福一人ででできることではない。
私たちも前世のどこかで正しい歴史をもみ消す側に回っていたであろう。
たとえ他人を苦しめようと思っていなかったとしても、間接的に悪事に加担してきた。
悪を助長させ、見て見ぬふりをしてきた責任は私たち全員にある。
自分のために祈るのはもう疲れた。
全てはすでに与えられている。
これ以上、もらおうとする必要はない。ただ与えるだけでよいのだ。
得ようとするからこそ苦しいのだ。
まずは自分一人が変われば、波紋は広がっていく。
あなたが変われば、あなたの周りが変わる。
あなたの周りが変われば、世界が変わる。
一緒に歩んでいこう。新しい世界を作っていこう。
美しい心を持った人々の世界を。
選択は私たちに委ねられている。』
————————————————————
ペンを止めた。
この内容が伝われば、そこから次の誰かに伝わる。
光のバトンは繋がっていく。
「次は誰がバトンを受け取るのだろうか」
車を発進させる。
窓を開けると、春の風が入ってくる。
希望の風。
未来は明るい。
人間は変われるのだから。
車は春の道を走っていく。
新しい世界へ。
新しい夜明けへ。
この物語は続いていく。
あなたと共に。
(完)


















