この美原小学校坂原分校は1874年に開校。こんな場所まで本当に人が通ってたのか??と思う程に遠い!だってメインの道路から結構上がって行くんだぜ...。
これを徒歩で行ってたのかなんて考えると気が遠くなるwww



最初は一体どこにあるかわからず、ひたすら法久集落を目指し登って行くもどこにも見つからなかった。
ちょうど軽トラのおばちゃんに遭遇し聞いてみると丁寧に対応してくれた。



ここら辺は急勾配の土地の為、見つけられずに間違って色々探しているとあっという間にチャクラを削り取られる...ッッ!!
事実ここら辺ヲ、30分以上探していた。



校庭を見渡すとそこには当時の遊具があった。これで子供達は遊んでいたのかな?
とか想像するの楽しいのよね。



使われなくなったブランコは危険防止の為に巻きつけられていた。しかし思うのだが、いつの時代も遊具は大して変わらないものなんだなぁ。



さてこちらが美原小学校坂原分校の校舎。石垣の上に建てられている。
思ったんだけど、ここに学校を建てるに当たってすぐに廃校になる事は目に見えていただろうに...それでもここまで立派な校舎を作るのは頭が下がる。



法久から通っただけで無く、他の地区からも来ていたのかな??
もう法久地区は過疎化が進んでほとんどが廃墟→放置されているけど、壊されていないので当時の生活がそのままわかる様な感じになっている。



中は荒れてはいなかった。鍵が開いていないのでガラス越しに撮影をする。



山間部そして植物が多いのでとにかく湿気が凄いのだろう、痛みがかなり激しい。



他の場所から中を写してみると、なんだか田舎のおばあちゃん家みたいでとても微笑ましいぞww



開校からすぐに違う地区に次々と小学校が出来始め、一気に児童数が激減。

歴史を辿ると...1年後の1875年3月に保護学校(後の保美濃山小学校)が分離...ッッ!!
4月に坂東学校(後の美原小学校)が分離...ッッ!!5月に譲原学校(後の譲原小学校)が分離...ッッ!!
過疎化で廃校!とまぁこんな感じなんだよね。場所が場所だけに仕方無いだろう、通うだけでも相当キツいぞ??
譲原小学校から法久まで歩いて行ったら1時間でも着かないんだから...そりゃ皆そっちに流れるよね。



現在では集会所として活用されているのだが、しばらく使われている感じがしなかった。集落自体どんどん小さくなっているのと、祭り的なものも無いので話し合うきっかけも無いんだろう。
恐らくは...回覧板も存在しない。

後から知ったのだが...学校のすぐ近くにプールもあるそうだ。
結局おばちゃん一人と遭遇しただけで人影はどこにも無かったのが謎すぎる。思うにこの地区独特の風習とかありそうでとても気になるのだが...天気が悪かった事もあり、早々にこの地を後にした。


住所:藤岡市鬼石町大字坂原2276(下久保ダムから上野村に向かう途中右側に法久入口の看板が見えたらそっちに行く!)