では、人間力とはなんだ?と思い、改めて調べてみると
〈人間力に関する確立された定義は必ずしもないが、社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力〉
という定義を見つけました。
そして、この定義にはこんな補足があります。
〈この定義は、多分にあいまいさを含んでいる。しかし、私たちは、人間力という概念を細かく厳密に規定し、それを普及させることをこの研究会の使命とは考えていない。人間力という用語を導入することによって、「教育とは、何のために、どのような資質・能力を育てようとするのか」というイメージを広げ、さらにそこから具体的な教育環境の構築が始まることにこそ意義があるのである。〉
(人間力戦略研究会より)
子どもたちの、そして私たち大人の日々の学びや経験の蓄積により育まれるものを総称した、人として生きるための力、といったところでしょうか。
何かが出来る/出来ない、得意なコト/不得意なコトという可視化しやすいものの次元を越えたモノ、もしくは、そういったものが木で例えるところの果実であるならばそれを下支えする根っこの部分こそ、「人間力」と言われる力なのではないかと思うのです。
今日読んだ齊藤孝先生の記事にはその根っこの育み方についてのお考えが紹介されていましたので、ご紹介しますね。
江戸時代の寺子屋は素読によって人間性を
高めるという側面が非常に大きかったのですが、
国語という教科もまた、ものの考え方や人格の成熟を担います。
単純な言葉のトレーニングではなく、
文学を趣味として読むのでもない。
人間性と言葉をセットにして
成長させていくことを促してきたのです。
国語のテキストに採録されるような文章は
非常に深みのある多義的な内容を含んだものが多いので、
議論していくとより深さが増していきます。
それゆえ知的な対話を喚起する素材になるのです。
国語は人間性の成長とは無関係であり、
日本語という言語を教えればいいのだと
考える方もおられますが、教科書が人間の精神性と
切り離して言葉だけを教えるドリルのようなものであるとしたら、
あまりにも物足りないと言わざるを得ません。
むしろ人間性を養うという重要な役割を
担ってきたと考えるからこそ、
国語が重要なのだと言えると思うのです。
人間性を養うという点では道徳という教科もあります。
しかし、道徳は国語ほど時間数が多くないし、
教える内容もあまりはっきりとしていません。
道徳に限定して人間性を養うというのも狭い感じがします。
その点、国語はいろいろな文章から
いろいろな意味を受け取ることができます。
クラス全員で話し合って意味を見出していくという作業を行えば、
対話もでき、思考の深化も期待できます。
ここで大事なのは、テキストです。
友達とやり取りしたおしゃべりのメールと夏目漱石の講演とでは、
当然それを巡る議論の深さが違ってきます。
誰の書いた文章でも同等の価値があるわけではありません。
やはり書き手によるのです。文章に込められた人格の深み、
教養の深さ、広さを感じさせる書き手は日本に数多くいますし、
また日本語に翻訳された優れた外国の作品もたくさんあります。
それらをテキストにして日本語を充実させ、
人格を成熟させる役割が国語にはあるのです。
(致知』2019年1月号より抜粋)
良質の言葉をたくさん耳に入れる、発する。
言葉が人として生きる力を育む大きな役割を果たす訳ですね。
今日も自分への、そして相手への言葉を大切に過ごしたいと思います♪
皆さまも素敵な一日をお過ごしくださいませ。
ラサタ
www.lasata.jp
