上京花日 | まいちょいす。

上京花日

 飯田橋の駅のホームは大きく湾曲している。軌条のバンクは今よりもきつくて停車中の電車は傾いてしまい、乗り降りにも気を遣うほどだった。はじめて駅を利用したときは緊急停車かと不安になったのを憶えている。

 神田川に沿う首都高速池袋線を右に見上げつつ駅を出ると、その高架に沿って進んでいく。大きく左へと曲がるその名も大曲(おおまがり)から白鳥橋(しらとりばし)で神田川を渡り、最初の交差点、安藤坂を左へ折れる。緩いのぼり勾配をそのまま数分歩くとデザイン事務所はあった。

 片道15分はけっこうずるいペースだったと思う。寒い暑いや雨風の日もあったんだが、そんな日々も楽しかった思い出として上書きされている。気楽な仕事だった。行き当たりばったりの道草は楽しかった。

 “Aアート”はマンションの一室だった。室内は襖や戸板が外され、大きめのワークデスク、写植機とライトテーブルがあった。風呂場は暗幕で仕切られ、現像のための暗室に改造されていた。

 ファクシミリはG3規格が始まったころ。インターネットが普及する少し前の時代だ。写植の指定原稿をファックスで送っておいて、出来上がりを取りに行くというルーチンだった。繁忙期には、ほぼ毎日通った。生原稿を持っていって引き換えに前日の入稿分の写植を受け取るのだ。

 ときにはインスタントコーヒーをご馳走になりながら現像を待つこともあった。慌てて半乾きのまま受け取ってしまうと、帰り着くころには印画紙がカールしてしまい版下作業は難儀になるのだった。

 仕事は海外向けのカタログも編集していた。文字原稿は欧文のタイプ打ちを使っていてIBMタイプで文字組みしていた。タイプ屋さんの仕事場は市ケ谷寄りに早稲田通りへ出て、神楽坂の坂上近くまで上ったところにある平屋の木造家屋だった。黒塀の先で右に折れるまでの道々、当時は小料理屋も多く、西日が強くなるころには三味の音が聞こえていた。店先の打ち水。軒先の盛り塩。

そんな風情はなんとも大人の世界で素敵に映った。

 川向うは千葉。そんな東京の東南端にある江戸川区で暮らしていると、山の手に入るその先は大都会なのだ。

 実家の窓に射す西日は室内を橙に染めていた。夕闇は水平線の日没とともやってくるような鹿児島の漁師町で育った若者にとって、そんな日々は正夢といえる毎日だった。