元気の海へ還ろう。 | まいちょいす。

元気の海へ還ろう。

読了
五木寛之 【元気】



まいちょいす。




  「元気に生きて、元気に死にたい」



あとがきにあるのは「薄氷を踏むような思いで今まで暮らしてきた」という

五木さんの生死観。副題の「人はみな元気に生まれ元気の海へ還る」。
伯母を亡くしたこの時期に選り好んだわけでもなしに廻ってきた本。




落葉帰根、自然法爾。これは循環論でないことはわかる(わかっていると

思いたい)。個のいのちは、循環論ではなくて、現世(あえてこの世)大局

が命である。個が滅することは、大きな視点では一部分であるということ。




昨今使われない「暗愁」。 (もちろん漢字変換されないよ (´□`。) )

日本人の情緒にも触れながら「あんしゅう」への想いが綴られます。
「ふさぎの虫」はだれもが飼っていて(笑)、その暴れようも人それぞれで

しょうし、その感じ方、生活への影響の受け方も多様と思います。
でも、うまく付き合って行かないとならない。「暗愁」に浸ってばかりはいら

れないわ。おまんま食べないとならない。




  人は大海の一雫。



そう思う。  (以降、勝手な生死観です。)


地球資源は消費され続けている。実感ナシに生きてきて近代やっと気が

付いたこと。地球がやせ細ってきている、病んできていると言われる。
それでも地球外に資源を持ち出しているわけではなく、宇宙から何かを

持ち込んでいるわけでもないわけで、物質的にはエネルギー変換しつつ

も、地上が有しているもの、すべてであることに変わりはない。


そもそも文明の英知が、神への冒涜とか、自然破壊とかではない、と

わたしは思う。それじたいが大それた話しではないか。ヒトってそんなに

凄いのかなぁって。ヒトも地上の構成部位。自然の中のちっぽけな一部

分。原子力利用も、大気汚染も、大局、それさえ自然循環ではないのか

と思ってしまうのです。


イキモノすべてがこの世界で「何かに向けて」せっせと生き続けている。

人類なら栄枯盛衰、文明の中で生きて死んで、死んで生きて、連綿と命

のリレーが繰り返されています。天変地異、戦争に疫病。人類の歴史の

先端にわたし達が今いるのは、決して必然なんかではなくて、もの凄く、

チョー奇跡的なことなのだと考えていると「生かされている」ことを感じな

いわけには、わたしはいかない。

今を生きていると言うことは、ことごとく神代の時代から祖先の血と縁を
自身が引き継いでいると言うことに他ならないから。

人は「命を乗せたビーグル」であるのは確かで。本来、命の維持継承に

従順であるようにプログラムされているのも理解しているつもり。。。





日常に無意識に「死」を遠のけるのは当然で、地縁血縁で身近な死を感

じたときに、ひとは生きていることを実感していると思う。

五木さんおっしゃるに「葬式の帰りの焼香者のいきいきとしたことか」。。。
亡くなった方に礼を失するとかではなくて、生きている(生かされている)
ことに、普段あまりに気が回らないから。そんなとき人は死が無縁ではな

いことになんとなくではなくて、リアルに気付くのだと思います。


だから生きることに理由が欲しいし、死ぬことにも意味があると考えたい。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


元気の「気」は“メ”であるとシメだすと忌み嫌われ、

“米”が入ると八方に広がる「氣」と、縁起を担がれるもの。

どっかで聞いた話しだったけれど、五木さんも語られてました。 (^∇^)