昨日は、
とも先生のカタヨガへ。
月一参加で、4回目。
「弱さを愛する」。
愛とは、
条件を付けないこと。
自分を愛するとは、
条件を付けずに自分を見ること、と
始めにとも先生がおっしゃった。
自分が「弱い」と思ってることは
それが「弱い=都合が悪い」と
信じていること。
私は、自分の原型そのものが
「社会で生きて行くには都合が悪く、弱い」と思ってて、
後天的に努力して
本来の自分とは逆だと思う性格を
身につけているところがあります。
社会に出て、人を見ていて
「こんな性格だったら、強くなれて
ラクだろうなぁ」と思ってるのは、
冷静で、気長で、人の気持ちが読める人。
私は、本来
すぐ動揺して、飽きっぽくて
人の気持ちなんててんで読めない
単純単細胞さんです。
もう、こんなの
人の気持ちや行動をコントロールするのに長けた人には
赤子の手をひねるようなもんよ。
簡単に誤魔化せるしさ、
浮気だってしやすいしさ。
(実際に、どれだけ誤魔化され、
浮気されたか・・・。
しかも全然気付かない。
気付いても誤魔化される。)
ズルイなぁ、と思っても
太刀打ち出来ない。
しょうがないなぁ、と思う。
単純で人を疑わず、
すぐ騙される自分、が
私が自分で思ってる弱み。
でも私自身は、
人をコントロールするのに長けた人は
便利だとは思うけど、
好きではない。
単純単細胞さんのほうが好きだ。
気が利かなくて不便だけど。
弱い=社会で不便
強い=社会で便利
だと
「自分で思っている」と気付いたし、
自分が何を便利・不便と定義しているか気付いた。
人に気に入られたい時には
「便利」な自分をアピールしていたことも。
それは「強み」を持つ人たちには好評なんだけど、
「弱み」を持つ人たちには
全然通用しない。
私が好きなのは、やっぱり自分と同じ
「弱み」のタイプなので、
好きな人には好かれなくって、
好きでもない人に重宝されるようになるの、
当然だったな。
弱くって不便な自分、
私の場合は
「落ち着きなくてすぐ動揺して、
飽きっぽくて、
人の気持ちがてんで読めない自分」で
今日は仕事も通してみようか(笑)と
思いました。
何がおこるだろうか(笑)。

