春分明けの土曜日。
昨日のインテグレートライブ、
「ほんとにあの場所にいたんだろうか?」とぼーっと思うくらい、
不思議な時間でした。
空間の細かい振動、
振動に伴って物質の粒子が分解する感じ、
空気の密度と重さ。
そういう現象が気持ち悪いので、なんとか思考で説明を付けようとするけど、
そういう思考さえ分解しようとする振動が続く。
それが「理性を失いそう」で、すごく怖かった。
物事も現象も本来はすべて
粒子が振動して流動しているのだと思う。
それを「思考」で必死で押さえ付けて、その場に同じ姿のままいさせようとすることで
安定・安心を得ようと
日頃、一生懸命なんだと思った。
秦さんの言う「大丈夫」は
「粒子を押さえ付けなくても、
粒子を振動させたり流動させるに任せても大丈夫」
ってことなのだろう、と思った。
そうすると、
世界は、思考で解釈する必要はなくなり、
ただ鑑賞するのみ。
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この「粒子」を
「子供」に置き換えると、
最近私が仕事で感じていた恐れと
同じ。
子供というのは、
とにかく行動でも感情でも動き回る。
それを「どう、預かりから返すまで、同じ状態で維持するか?」
「何事もなく無事に返すか?」
ばかり、考えるようになっていた。
それには、力で押さえ付けなきゃいけない。
で、私にはそこを押さえ付ける力量がない。
そんな自分にも不安だった。
けど、これも
ただ観察するだけで大丈夫なんだろう。
押さえ付けなくても、
振動させたり流動させたりに任せて
大丈夫なんだろう。
分かる、ということは
思考で解釈して枠にはめることだ。
枠にはめて、それで安心する。
だから、
「分からない」ということが
とても不安。
生きても生きても、
分からないことばかり増えていく。
分からなくても
そこに存在している、というのが
豊かさ、なのだと思う。
