この記事の続きです。

子供の頃から
拗ねるのが当たり前すぎて、
もはや、拗ねる以外の
思考回路を思いつかない。
の続き。

ここで、
「あ、あれは、そういうことか!」と
ひらめいた。

それは、
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飾ってあった春の花。

の、とも先生のご主人
仁さんのあのセリフ、

「どうせ、愛されてるし。」


これさ、
拗ね思考が当たり前になってる人間には
嬉しそーに言えるセリフじゃないのよ。
だって、拗ねすねさんにとって嬉しいのは
「ほーら、私の思った通りでしょ?」
だから。
“どうせ私は価値がない”と思ってる
拗ねすねさんにとっては
実際自分に価値があるかどうかが問題なんじゃなくて
“価値がない”っていう、自分の主張が
「ほら、その通りだったでしょ?」ていうのが
嬉しいのよ。


価値のあるなしとか、
どっちが正しい正しくないとか
どうでもよかった。

ただ、
「お前には何も出来やしない」という
いつか浴びせられた呪いに対して
「そんなことはない!
私のしたいことは
必ず現実化する!」
ひたすら証明してきた。
その歴史。


「私には何も出来やしない」という、
多分私の内からの呪いの声に対する
「いいや、必ず出来る!
それを現実で証明して見せる!」
という戦いは
ずっとずっとこれからも
つづくと思う。
多分死ぬまで。


拗ね歴史の長い人は
それはそれで
実は現実化の熟練のプロだ。

そんな人間が
「どうせ愛されてるし。」なんて拗ねたら
どんなことになるか。

相変わらず困り顔で
「どうせ私なんて
愛されちゃうのよねぇ」って
言うんだろね。