ラピスラズリ・ガーデンのかお です。
比較的「感性」が鋭い(するどい)人と、
比較的「感性」が鈍い(にぶい)人が
世の中にはいる、と思います。
(ふりがなを打ったのは、私自身がよく「鋭い」と「鈍い」をごっちゃにするから。
漢字にすると区別がつかなくなる)
で、同じように
「直感」が鋭い人と
「直感」が鈍い人、というのも
いるように思います。
「感性」は
物事に触れたときの、その物事を読み取る敏感さ、
「直感」は
物事に触れたとき、その物事の「芯」を読み取る透視力、
のように思います。
「感性」と「直感」を合わせて「感覚」というのでは、と。
私は
「感性」が鋭くて「直感」が鈍い人間なので、
直感が鋭い人がうらやましくて仕方ないです。
いくら水の表面のさざなみを数えることができても
その水の中にあるものが見通せないじれったさときたら!
そして、現代社会では
「感性」が鈍いほうがいいんだろうなぁ、とも思います。
何を見ても言われてもめげない!
いつもニコニコ穏やか。
いわゆる「愛されキャラ」ってそういう人だと思います。
だから、
「感性が鈍くって、直感が鋭い人っていいなぁ」と思う。
何を見ても言われても平気でニコニコ穏やか、
それでいて言うことはズバッと真実を突いている!
あ、そうか、いわゆる「天然」って言われる人って、そういう人だ。
まぁ、そうは言っても、
私が「感性が鋭くて、直感が鈍い」ことに変わりはないので
ないものねだりしても仕方ないです。
感性が鋭いというのは、例えるなら
町の騒音が比較的大きく聞こえやすい、ということです。
人の感情の波も、比較的詳しく読み取ります。
人が「ちょっと怒ってる」ということを
比較的、敏感に察知する。
ここで直感があれば「その人が怒っている根本原因」に
焦点が当てられるんだけど、
直感がない場合、
「わ、この人なんだか密かに怒ってる、怒ってる・・・なんだか分からないけど怒ってる」という感情の波をひたすら見続けることになる。
感性が鋭くて、直感が鈍いと
気が狂う、と思います。
実際、私も人生通して、いつも気が狂う寸前です。
そして、今の社会では、多分
直感が弱くなってきていると思うので、
気が狂いそうになっている人がたくさん居ると思います。
気が狂いそうになりながら、
それでもどうやって生きていくか。
私はそれをずっと模索してきたような気がします。
気が狂わないようにするためには、社会の役に立つようにすればいいのではないか?
そう思って、がむしゃらに動いては頭を打ち、人にも迷惑をかけ。
まだ、模索の道の途中ではありますが
なんとなく見えてきた道は、
「社会の役に立つ」ことを諦めたほうがいいのではないか、ということ。
本当に気でも狂ったら、それこそ「社会のお役に立つ」どころではなくなる、
それよりもただその感性を何か社会の「飾り」に、
何の役にも立たないかもしれないけど何かの彩りにはなるね、という「飾り」にして
社会の片隅にそっと置いておくのが、
自分も気が狂わず、何とか社会とも共存できる方法なのではないか、と
最近、思ってます。
社会のお役に立つことを諦め、何か彩りになるかもしれない「飾り」を作ること、が
感性ばっかり鋭くて直感がなく、現代社会に適した「愛される天然キャラ」になり損ねた私の
生きる方法なのだろう、と思います。