ラピスラズリ・ガーデンのかおです。
長年、
「立派な働きが出来ない人間は、社会の中で生きることはできない」
と、思い込んできた。
だから、周りのため、地域のため、社会のために
どれだけ役に立てるか、
役に立たなければ生きていけない、とさえ
思って、がんばってきた。
家庭でも
耐えがたきに耐えて、
役に立つ家庭人であろうと、必死で
がんばっていた。
しかし
夫とは上手くいかず、
地域とも、いつまでたっても
こころ許して暮らせる感じがしなかった。
結果、
少々の友人が出来たことだけを救いに、
家庭も、土地も離れることになった。
あんなにがんばったのに、
決して私の働きは他に見劣りはしなかったはず!と
正直、怒りを覚えることもあった。
今、新しい土地に来て、
やっぱり前の通りに
「立派な働きをしなければ!!!」と
肩をいからせてかかったけれども、
そうそうは、立派な働きは出来ない。
それでも、ちゃんと生きて、生活している。
ありがたいことだと思う。
今思うに、
「立派な働きをしているから、その社会に居られる」というルールではなかったのだと思う。
「その社会でチームワークが取れる人が、その社会に居られる」だったのだ。
チームワークとは、
人に「ありがとう」と言えるように
仕事を分け合うことだ。
私は、たまたまチームワークの少ない家庭で育って、チームワークの取れない人とまた家庭を持ったために、
「仕事を分け合って、ありがとうを分け合う」という発想がなかった。
「仕事」と「感謝」がセットでなくバラバラになっていて、
「仕事をしたらお金を得る権利がある」
「立派な人間に感謝される権利がある」と
分かれていた。
実際には、
お金や立派さは副次的なもの。
「仕事=感謝」で、
仕事や感謝だけを一人占めしても、仕事や感謝を受け取らなくても、
「チームワークが取れない」ことになって
その社会には、居られなくなる。
仕事を受け持ってもらっては、ありがたくて感謝し、
仕事をすれば、感謝される。
なんと世の中には、感謝ばかりなのだろう!と思う。
それがチームワークというものなのだろね。
長年、
「立派な働きが出来ない人間は、社会の中で生きることはできない」
と、思い込んできた。
だから、周りのため、地域のため、社会のために
どれだけ役に立てるか、
役に立たなければ生きていけない、とさえ
思って、がんばってきた。
家庭でも
耐えがたきに耐えて、
役に立つ家庭人であろうと、必死で
がんばっていた。
しかし
夫とは上手くいかず、
地域とも、いつまでたっても
こころ許して暮らせる感じがしなかった。
結果、
少々の友人が出来たことだけを救いに、
家庭も、土地も離れることになった。
あんなにがんばったのに、
決して私の働きは他に見劣りはしなかったはず!と
正直、怒りを覚えることもあった。
今、新しい土地に来て、
やっぱり前の通りに
「立派な働きをしなければ!!!」と
肩をいからせてかかったけれども、
そうそうは、立派な働きは出来ない。
それでも、ちゃんと生きて、生活している。
ありがたいことだと思う。
今思うに、
「立派な働きをしているから、その社会に居られる」というルールではなかったのだと思う。
「その社会でチームワークが取れる人が、その社会に居られる」だったのだ。
チームワークとは、
人に「ありがとう」と言えるように
仕事を分け合うことだ。
私は、たまたまチームワークの少ない家庭で育って、チームワークの取れない人とまた家庭を持ったために、
「仕事を分け合って、ありがとうを分け合う」という発想がなかった。
「仕事」と「感謝」がセットでなくバラバラになっていて、
「仕事をしたらお金を得る権利がある」
「立派な人間に感謝される権利がある」と
分かれていた。
実際には、
お金や立派さは副次的なもの。
「仕事=感謝」で、
仕事や感謝だけを一人占めしても、仕事や感謝を受け取らなくても、
「チームワークが取れない」ことになって
その社会には、居られなくなる。
仕事を受け持ってもらっては、ありがたくて感謝し、
仕事をすれば、感謝される。
なんと世の中には、感謝ばかりなのだろう!と思う。
それがチームワークというものなのだろね。