先日受講した、TA(交流分析)での学び。
備忘録として、ちょっと書いておきます。
交流分析でラケット感情、というものを習いました。
幼い頃、親の承認が欲しいがために。
偽ることで、承認をもらえたために、覚えた感情。
<ほんとの感情>
スーパーでお菓子がほしかった。
買ってもらえなかった。
悲しい
<ラケット感情>
スーパーでお菓子がほしかった。
買ってもらえなかった
わがままをいうな!
もう連れてきませんよ
など、親からその悲しかった感情を認めてもらえなかった。
悲しい思いは認めてもらえない。
「そんなこと言わなければ良かった」・・・後悔
「欲しいと思うことはわがままで、私が悪かったんだ」・・・自責
「私が欲しいということは許されないんだ」・・・自己否定
「私が悲しいという気持ちは、分かってもらえないんだ」・・・あきらめ
・・・などと、「悲しさ」とは別の感情で
自分も回りも納得させようとします。
そういう感情のこと。
根っこの感情「悲しかった」。
ここが大事だったんだよね。
ほんとは、そこ、認めて欲しかったよね。
悲しかったね、って言ってもらいたかったよね。
けれど、そこに勝手に肉付けした、感じる必要のない、もういらない感情も、
一緒くたにして感じようと、努力してませんか?
罪悪感とか、責める気持ちって、それってほんとにいる?
夫婦関係でも、ダンナさんが投げかけてくる行為。
何の交流もないよりマシだから、
不必要なとこまで、額面どおりに、受け入れようとしてしまう。
その嫌な感情に、付き合ってしまう。
嫌だけれど、不快になるってわかってるのに。
受け入れるのは
「ダンナさまの弱さ、そうせざるを立っていられない事が
あったのかもしれない。その状況、心の内」
慣れ親しんだ、そのお気に入りの感情。
今も持ち続けていませんか?
その感情は、大人になった今でも、本当に必要なものですか?
手放すきっかけ、つかんでみませんか?
人間は、よきにつれ、あしきにつけ、心のふれあい、ストロークの交換を
求めずにはいられない生き物なんだって。
よいストロークをできたときには、嬉しく満たされた気持ちになれる。
マイナスのストロークを受けたときには、悲しくなったり寂しくなったり。
ダンナさんと、よいストローク交換ができたら、素直に嬉しい。
心温まるストロークを交わしたい。
そのためには?
ということですよね。
そのために、良妻賢母のお勉強をしたり、コミュニケーション術を
学んだり・・・。
その前段階で、自分の心を見つめる。ということも必要だと思います。
渦中にいるときは、苦しい悔しい、つらい、負かしたい、ギャフンといわせたい
などなど、醜いなぁ~って気持ちもでてきて当然。
ごく自然。
なんで?どうして?
疑ってしまう。
些細なことから、思い出してしまう。
自分を否定された気分になってしまう。
我が存在すら、この世界にはいらないのだと感じてしまう。
それ、本物の感情ですか?