楳澤和夫「「歴史総合」のねらいと授業づくりの視点」
(『歴史地理教育』912号、2020年、10~17ページ)
1.目次
はじめに
1.『地理歴史』の大きな改変と「歴史総合」の登場
2.「歴史を」学ぶから「歴史に」学ぶへの転換
3.「私たち」にとっての歴史と私たちの「問い」
4.どのようにして生徒の「問い」を生み出すのか
⑴ 明治天皇の肖像を比較する
⑵ 中学校の歴史教科書を比較する
5.「問い」から「主体的・対話的で深い学び」へ
6.教師の問いか生徒の問いか
7.「歴史総合」への期待
2.著者について
2020年4月のブログで楳澤の論考を取り上げたので、ここでは割愛する。
3.要旨
歴史協議者協議会が出版する『歴史地理教育』の2020年7月増刊号(912号)は、「学び合う「歴史総合」の授業づくり」というタイトルで、歴史総合について特集している。この増刊号では、全体を5部にわけている。その第1部「「歴史総合」に向き合う」のなかの最初に掲載されているのが今回の楳澤論文である。
楳澤は「歴史総合」を、近現代史を対象に日本と世界との相互関係を中心に学ぶ科目であると位置付け、これは近代以降続いてきた歴史教育の枠組みを大きく変える画期的な出来事であるとしている。そして「歴史総合」という科目は、「私たち(生徒)」が「問い」を設定し、「現代的な諸課題」の形成に関わる歴史を考察する科目であると述べ、歴史教育が「歴史を」学ぶことから「歴史に」学ぶという考え方に大きく転換したとする。
ではどのような方法を取れば上記のような学習が成立するのかという点について、楳澤はまず歴史を生徒にとって「他人事」ではなく「自分事」として考えさせること、そしてそのためには「私たち(生徒たち)」自身に「問い」をもたせることが重要となると述べる。授業では生徒がもっている歴史のイメージを、資料などを使って揺さぶることから生徒の「問い」が生まれる。具体例として、2つの授業実践を提示している。
「問い」をもった生徒が主体的に歴史を考えるようになると、生徒は自分が納得できる回答を得ようとしてそれぞれが「仮説」を立てる。生徒ごとに異なる「仮説」が立てられると、そこから「討論」がはじまる。生徒がなるべく多くの人に納得してもらえる、支持される歴史像を作り上げる過程が「討論」であると述べる。この一連の学習が「主体的・対話的で深い学び」であると楳澤は延べる。そして楳澤は最後に「歴史総合」の危惧される点と期待する点を述べている。
4.感想など
楳澤氏は最後の危惧される点で、「問い」の作成に関わる問題を挙げている。「生徒が考えたい」問いと「教師が考えさせたい」問いを峻別することが、生徒の「主体性」を保証するポイントであると述べている。従来の歴史の授業では、「教師が考えさせたい」問いが重視されてきたように思う。例えば、ローマの共和政がなぜ成立したのかについて、平民の権限が増長する過程を追って学習することがその具体例として挙げられるであろう。この点は教師の側からみれば、フランス革命以降の民主主義の源泉を知るという意味で意義深いことであろう。しかし生徒の側にたって考えてみるとどうであろうか。確かに教師側から考える意義は必要なことであるが、生徒は時代的・地理的にも遠い世界の「共和政」なるよくわからないものを学習することに意義を見出すことは難しいであろう。
「教師が考えさせたい」問いが必要ないとは思わないが、そればかりではもはや歴史の授業は成立しないように思う。「生徒が考えたい」問いと「教師が考えさせたい」問いを峻別したうえで、両者が歩み寄って時には前者に重きをおいた授業を展開する必要があるであろう。また時には、生徒の興味や関心に根差したうえで後者に重きをおいた授業を展開することが重要だと考える。これからの歴史の授業には、両方できることが求められるのかもしれない。
本論文の結びとして、新科目の登場は授業改革にチャレンジできる絶好のチャンスであると楳澤氏は述べている。これまでの諸先輩方の実践を糧に、時代に適した新思考の授業が求められている。これはなかなかワクワクすることではないだろうか。