ご存知の様に、ラピス ド エコールには大学生の講師が何人も居ます。

大切なお子様の勉強をアルバイトの学生に見させることに

御不安な御家庭もおありになることでしょう。


正直、彼らは社会というものを知りません。

ラピスに入るまで、日本の大学生の典型である、大学に入ったら遣りたいことをやろう。

部活やサークル、趣味 と自由を謳歌出来ると思ったかもしれません。

いつのまにか歪んでしまった日本国中に溢れる教育理念。


(将来、楽に成る為に…。)の洗礼を受け、受動的に与えられたことをこなし

自分の為だけに努力をしてきた子供達です。


その子供達が、ラピスでたとえバイトであれ、

自分のこと以外で努力する事に出会います。


所属するチームの為に、学祭で皆と力を合わせのレベルでは無く、只ひたすら、

自分の事以外で人の為に、どうすれば良いのか。何がBestかを考えさせられます。

自分が当たり前と思い、してもらっていたことを相手の為に用意し、

スッと受け入れていた事柄、(分数の割り算は逆数にして掛けること。マイナスの概念。


原子や分子や目に見えなくても在るということ。古典の人の情緒の豊かさ、等)を

「なぜ?」と聞かれたときに答える言葉に戸惑いながら、技巧に走らず、

どうすれば心に届くかの課題が教務1日目から立ちはだかります。

彼らはそれを必死で模索しています。1つでも出来る様にする事、

させる事が如何に難しいことかを思い知って。


人の役にたとうとする事。人の役にたつために今までの人生の全てを

駆使し試みねばならないこと。それを厭わないアナタが

必要ですよ。と家族や友達ではない繋がりで自分を必要とされること。

そして、教える子供達が出来るようになったときの喜び、

感動は自分の為だけに生きてきた人生にとって大きな発見であり、

それがより彼らを研磨へと導きます。


「働く」ということは、こういうことの積み重ねではないでしょうか?

そこに、社員もバイトの垣根も無い。と私は思っています。

勿論、世には若さを切り売りする仕事。名前すら覚えて貰えないけど

自給は良い仕事も多々あります。大人でも、生活の為にだけお金のためだけと

割り切っていらっしゃる方もお見えになるでしょう。

でも、「働く」ということは社会に貢献すること。社会に、人に自分が必要とされ、

伴により良い未来を築こうとする営みであるべきです。


これは、「理想」かもしれません。しかしこの理想を真摯に受け止め実行しようと

深夜まで取り組んでいる学生がいます。自らも「学ぶ」課程に居るから、

生徒の悩みをリアルに受け止め心痛める者がいます。


彼らの純粋さと熱意を日々感じることが出来るからこそ、私は学生スタッフを断ちえません。


彼らの中には元ラピスの生徒だったスタッフも居ます。

一人は年末に「自分が生徒だった時は先生たちがこんなにも胸痛め考え、

用意してくれていたなんて知らなかった。生徒の時はごめんなさい。」と言っていました。

愛されてばかりの子供達が「人を愛すること」に気付き始めました。

「生徒の為に何が出来るか?」の討論、研修は教務時間を遥かに越え深夜になることも度々です。

朴訥なしゃべりはありますが、心に届く教え方を研磨し、

今日もスタッフ一同が教務にあたらせて頂きます。


ただ、どんな時であっても彼らの活躍はラピスが築いた細密なシステムの上で

あることは勿論のことです。

その上で、人と人。夢とあこがれを伝えるべく熱い血の通った授業を

これからも展開していく所存です。どうか、これからもラピスは子供たちと伴に学び、

伴に悩み、伴に成長していく姿を見守っていて下さい。


宜しく御願い致します。








ウサギ2011年7月 通信~ニュースレター~ウサギ

中3の期末テストの公民の範囲は憲法です。

新聞の殆どが内閣や原発関連を占める中で、先日「君が代起立」に最高裁が合意を示した記事を目にしました。

これは、公立学校で「君が代」斉唱時に教諭を起立させる校長命令に対し、

起立しなかった元教職員の一部の方々が戒告、減給処分、

定年後の再雇用の不合格を言い渡されたことへの提訴を廻る1つの判決です。

最高裁は多数者意見を取り「思想・良心の自由」を保障した憲法19条には

違反しないという判決を下しています。

でも、5人の裁判官の中で只一人の反対意見を述べた宮川裁判官の意見に

わたしは惹かれました。   

少し長くなりますが引用致します。

(憲法は少数者の思想・良心を多数者のそれと等しく尊重し、その思想・良心の核心に反する行為を強制することは許容していない。国旗敬礼や国家斉唱は多くの人にとっては自発的行為であり、起立斉唱は儀式におけるマナーでもあろう。しかし、そうではない人々が相当数存在している。「日の丸」「君が代」を軍事国家や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし、平和主義や国民主権と相容れないと見なしている。少数であっても、そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的問いを社会に投げかけているとみることが出来る。本件職務命令は直接には職員らの歴史・世界観・教育上の信念をも持つことを禁じたり、反する思想を強制してはいないので明白に憲法19条に違反するとはいえないが不起立、不斉唱は思想・良心の表出の可能性がある。今回の判決は起立斉唱を多数者の意見で評価しているが、およそ精神的自由権に関する問題を多数者の意見からのみ考えることは相当ではない。割り切って起立斉唱するものもいるだろう。面従腹背するものもいるだろう。起立しても斉唱しないものもいるだろう。深刻に悩んだ結果として、或いは信念としてそのように行動することを潔しとしなかった場合、その心情や行動を一般的でなかったからとして過小評価するのは相当ではない。)

と、いうものです。いかがでしょう?

この反対意見から様々なテーマが浮かびます。

歴史、戦争、憲法、国歌、自由、権利、保障、アイデンティティー、ぜひ、自分でも考え、       出来れば家族や友人と語り合ってみませんか?

たとえば国歌のことについて意見を延べ、交わすには自分なりの解釈をし、沢山の言葉を使います。

そのために様々な分野の情報を知識として持ち、自分の言葉として活かす能力が必要です。

実は学校で勉強するということは、こうゆう単語を字面の暗記では無く自分がどう捉え、

考え、望ましい社会の姿を自分なりの言葉として持っているかという、

知恵と知識の修得にあるのです。


震災で学んだことは、今この地球上に自分だけが安全な場所は何処にも無く、

自分だけが幸せならば良いという考えでは共存は出来無いということではないでしょうか。

人は自分だけの為に生きてはいないのです。

それなのに子供達には安定した収入の為に点数を上げ、

高学歴を得るための自己中心的考えの方が強調されていませんか?


戦争もまたいつ起こるやもしれません。世界を見渡せば、

今までの価値観が180度変わることもあるでしょう。


「なぜ、学校で勉強するのか。」

それは子ども達一人ひとりが望ましい社会、平和な社会を想い、正しい認識を元に自分で判断し、

自由に生きる為の知識を得、自己責任を担って未来を築く為です。

そして憲法はその為にあります。法律と憲法は違います。

法律は王が国を治めやすくする為に作られたのが始まりです。

もっといえば権力者の利益の為に定められたものです。

しかし憲法はその国の国民の為に生まれました。

つまり憲法は「国民が国家を取り締まるための法律」なのです。

中でも日本国憲法は世界で類を見ない高潔な理想を掲げた憲法だと思います。

たとえ、その成り立ちは諸説あっても、合衆国憲法のように自国の平和と繁栄ではなく、

世界平和を詠い民主主義の理想が込められているのが日本国憲法です。

私達はまず、望ましい社会の姿を憲法を読むことによりイメージし、

国がその通りに運営されているか、よく確認して状況に応じて改める勇気を持たねばなりません。

又憲法も現状に応じて修正しく必要があるでしょう。

それは、誰かがやってくれるのではなく、日本国民一人ひとりの義務です。

そしてこの義務を遂行するためにもまた、知識と能力が必要なのです。「

なぜ、学校で勉強するのか?」その1つは、

国民の権利を守る憲法を正しく運用する知識と責任能力を付ける為。

と言っても過言ではありません。人任せにしていたら、いつの間にか懲役製が導入され  

子ども達が連れ去られるかもしれません。

正しい知識が無ければ脱原発では電気が使え無いと思い込み、

ドイツのような決断に至れぬかも知れません。学ぶべき時にどうか祝日の日だけを暗記した。

などということが無いことを願います。

今、学ばねばならないことは決して自分の私利私欲の為に学ぶのではありません。

自分の為だけで無く、自分が社会にどう貢献できるか、

未来をどう担っていくかを真摯に考える時、きっと受け身では居られないはずです。

やらされているのでは無く自ら知識をもっと渇望するでしょう。より良き未来の社会、

すこやかな社会は子ども達の知識の修得と知恵の発揮の先にあるのです。





ウサギ2011年6月 通信~ニュースレター~ウサギ


以前、お送りしたニューヨークタイムズのメーッセージを遥かに超え、今世界中が日本を注目しています。


史上、類を見ない震災に見舞われたこと以上に、その後の日本人のあり方、

老若男女を問わず節々に見られる


助け合い、支えあう姿に。


「この状況下で人間の尊厳を教えてくれた日本の方々と同じに

人間の血が流れていることを誇りに思う」

とハーバードの学生は語っていました。


多くのものが遮断された世界で携帯やネットはその真価を発揮し、

安否と伴に勇気のメールを送りました。


そのメールやブログは早くも本になり、書店に積まれています。


商品に?の賛否はありますが、収められている言葉はいずれも胸を打ち

日本人としての誇りを感じずにはおれません。


編集の方々も何とかこの言葉を残したい、伝えたいという熱い想いがあってのことでしょう。

例えば、「瓦礫の中を運行するバスに小さな子供達が「運転手さん、ありがとう!」と

言いながらバスに乗り込んできた。

運転手さんは泣いていた。俺は号泣していた」という一文に

「これが、日本の文化です。どんな状況下においても、

どんな幼い人であっても「ありがとう」が言える事、

挨拶を言える姿を育んできた土壌が日本です。と。

どんな時でもあいさつを忘れない。あいさつから勇気を貰う。あいさつから希望を貰う。

ほんの短い言葉を交わす中に私達は沢山の想いや心づかいを送り、感じることができます。

どんなに身近な家族であっても、その人のこと、

その日のことの心中は中々解らぬまま人と人は交わり過ごしています。


それでも、いつもと変らぬ、さわやかな あいさつ。温もりのある 

あいさつは千の言葉には叶わぬとしても、


一陣の風。一つの灯明になるやも知れません。

そして、そのひとつ一つは微かであっても、沢山の光に照らされれば、


道は明るく、そうやって支えられて歩んで行く事を日本人は日々の暮らしの中にも

根差させ、伝えて来たのだと思います。


それを、文化と言います。もちろん、文化には様々な定義が存在しますが、

総じていえば人が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体です。


であるならば、あいさつを通しての日本の文化はなんと、暖かく、

美しいのでしょう。


日常の飾り気の無い言葉に心を乗せ、時を経て受け継がれたあいさつが

今日も幾千もの明かりになって道を照らしています。

ラピスに来るに子供達に暖かく迎え入れられるあいさつ。

子供達を心地良く送り出せるあいさつ。を、もっともっと心を込めて交わすことも、

今、私にとって出来ることの一つだと改めて思いました。


子供達に伝えたいこと、育んでいきたいこと。残さねばならないことへの想いは、

この基盤に支えられているからこそ巡らせて行けるものなのでしょう。

そして、その機会を与えてくださった、生徒のご家族の皆様。ラピスのスタッフ。

私の家族に感謝します。



いつも、ありがとう。





ウサギ2011年5月 通信~ニュースレター~ウサギ