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◎古事記にみられる拍手



『古事記』下巻、雄略天皇条に、


而大御刀及弓矢始、脱百官人等所服之衣服、以拝献。


爾其一言主大神、手打受其捧物。


と見えます。訓読すると、


大御刀(おほみたち)また弓矢を始めて、百官人等(もものつかさのひとら)の服る衣服(きもの)を脱(ぬ)かしめて、拝(をろが)みて献(たてまつ)る。

しかして、その一言主大神(ひとことぬしのおほかみ)、手打ちて其の奉(たてまつ)り物を受けたまひき。


となります。本居宣長の


手打は、物を得賜ふを歓喜賜ふ態なり、


と説かれているように、物をいただくときの喜びを表す拍手と考えられます。いわゆる「礼手(らいしゅ)」の起源でしょうか。御神酒をいただく際も「歓喜」の気持で拍手をしてからいただきましょう。


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『古事記伝』には、

◎玉木葦斎『玉籖集』「祈祷之伝」


祝詞の本質とは何か、種々説かれていますが、「祝詞作文」の授業では、先人の言説のうち、玉木正英(葦斎)が神道の教義や行法について整理記録した『玉籖集』(享保10〔1725〕~12〔1727〕年)巻之四の「祈祷之伝」を紹介しています。垂加神道や橘家神道の流れを汲む考え方です。語源説は当時のものですが、その本質追究への思索の深さには感銘を受けます。


『日本書紀』神代上の「天児屋命・太玉命……相與致其祈祷焉(あひともにのみいのりまをす)。」に対する「伝」です。


祈祷申してとは、のむは呑込、心源に入る也、

いのるは言宣る也、

心中に湛たる誠を有の儘(まま)に言葉に宣る也、

祈祷は様々式法あれども、畢竟(ひっきょう)誠の感通する所にして、祈祷成就すること也、

式法に泥(なづ)むべからず、

又古き式法を背くべからず、

至誠を以祈るべし、

一毫(ごう)も私意疑心あれば、曽(かつて)感通无き也、

口伝曰、人の交妙合して子を生ずるは、至誠感通の印也、

其妙合の時他意なき如く、其心を以何事も祈奉るべき也、

此垂加霊社より八塩翁へ相伝とけ(◎てカ)甚秘せられた(マゝ)伝也、

〔有口伝〕


*『神道叢説』(国書刊行会、明治44年〔1911〕 )所収


☆キーワードは「至誠」と「感通」です。

☆「感通」は、祭る者と祭られる神々と、心が響き合い通ずることです。

☆作法を体得していないと「式法」になづむことになり、自らの所作のみに心が奪われ、「感通」はなしえません。

☆他意なく奉仕しする、その作法が自ずから、昔の式法に則っている、という作法をしたいものです。

★「祝詞作文」の講義では、「口伝曰……」以下はカットして紹介しております。

★「カンツウ」の変換ミスに注意して下さい。



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◎森と社


D・E・コラールの『アジアの旅』(未来社、1967年)では、神社と森との関係を次のように説いています。

日本人にとって当たり前の風景ですが、外国人から見ると印象的な映像に見えるようです。

『万葉集』では「神社」を書いて「もり」と読ませています。

この国の広汎にわたって至るところで繰り返された最も印象的な映像は、他でもない、森と社とが密接に結合されているということである。あたかも日本の(神)が全自然を満たしている聖なる流れの凝結した一滴にほかならぬように、日本の神社は森という神聖にして広大なる住居の最も圧縮された建築的表示ともいうべきものである。



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*コラールはスペインの歴史家
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%97%85%E2%80%95%E9%A2%A8%E6%99%AF%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96-%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/4624110145