花の窟錦の御幡献上行列 | laphroaig-10さんのブログ

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◎花の窟錦の御幡献上行列


平成24年10月21日に「錦の御幡献上行列」が再現されます。


三重県熊野市有馬町130-3に鎮座する「花窟神社」は『三重県神社誌』(三重県神社庁、平成5年〈1993〉)によると下記の通りです。


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【祭神】伊弉册尊、軻遇突智尊

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【社殿】拝殿

【境内】7968

【氏子】崇敬者 500


【由緒】当社の創始については詳らかでないが、『日本書紀』(神代巻上)に一書に曰くとして「伊弉冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る」とみえ、それが当社のことであると伝える。つまり、当窟は伊弉冉尊の御葬所であり、季節の花を供え飾って尊を祀ったが故に花窟との社号が付けられたと考えられる。一説に伊弉冉尊を葬し奉った地は産田神社であり、当社は火の神の御陵ともいう。また、御網掛け神事は音曲歌舞こそ伝承していないが、大要において書紀の記載に合致し、往古の遺風を残すものといえる。

 古来、当社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冉尊の御神体とされ、その下に玉砂利を敷きつめた祭場が設けられている。それを少し隔てた所には王子の岩屋と呼ばれる高さ12メートル程の岩がある。『紀伊続風土記』によるとここに軻遇突智尊の神霊を祀り、この神が伊弉冉尊の御子であることに依拠して、王子の窟(別名、聖の窟)の名称由来を説いている。

【祭祀】例祭 2月2日 10月2日 祭日には御網掛け神事(三重県無形文化財に指定)が斎行される。口有馬の氏子が中心となって、およそ10メートルの三旒の幡形を作り、その下部に種々の季節の花々や扇子等を結びつける。それを約170メートルの大綱に吊し、その大綱の一端を岩窟上45メートル程の高さに、もう一端を境内南隅の松の大樹にかける神事である。昔は朝廷より毎年錦の幡旗が献上されていたが、ある年幡旗を乗せた船が難破し、奉納されなかった。そこで土地の人が急遽縄で形作った幡旗をこしらえてそれに代用し、現行のような神事になったという。

この綱にはかつては朝廷から献上された「錦の幡」が吊るされてたという伝承があります。

『紀伊続風土記』(巻之八十九)「牟婁郡有馬荘、口有馬村」の「○花窟」条の下記の伝承に基づき、「錦の御旗献上」の様子が再現されます。

祭日年二月二日十月二日両度なり、寛文記に昔は祭日には紅の綱錦の金銀にて花を作り散し火の祭と云ひしとあり、土人いふ、幡は毎年 朝廷より献し給ひしに、何れの年にか熊野川洪水にて其幡を積みたる御舟破れしかは、祭日に至俄にせんすへなく、縄にて幡の形を作りしと、其後錦の旗(マヽ)の事絶えて縄を用ふ。