権田直助「作法八勿」 | laphroaig-10さんのブログ

laphroaig-10さんのブログ

ブログの説明を入力します。

◎権田直助「作法八勿」

一、着座體を側(かた)むる勿れ
二、膝歩體を曲ぐること勿れ
三、行歩身を僂(かが)むること勿れ
四、行歩身を反すること勿れ
五、折行轉囘歩を止むること勿れ
六、進退行歩空足すること勿れ
七、傳供鼻より低く持つこと勿れ
八、傳供兩手を同一に出すこと勿れ


権田直助とは(『朝日日本歴史人物事典』より)

生年: 文化6.1.13 (1809.2.26)
没年: 明治20.6.8 (1887)

幕末明治期の国学者,神道家,医者幼名玄常。名越廼舎と号す。武蔵国入間郡(埼玉県)毛呂本郷に生まれる。権田家は祖父休玄,父直教(嘉七郎)とも村医師であった。19歳のとき江戸に出て幕府の医官野間広春院について漢方医学を,安積艮斎に儒学を学び,天保1(1830)年22歳で郷里に帰って医を開業した。天保8年29歳のとき再度江戸に出て平田篤胤に入門して国学を学び,国学思想に基づく「皇朝医学」を唱えた。当時の医学が漢洋医学に主導権を奪われている状況に対して,わが国本来の医道を打ち立てようとするもので,断片しか伝えられていないわが国の古い医方に体系を与え一個の医道にまで高めようとするものであったが,必ずしも漢洋医学を否定するものではなかった。このためその医学研究は『大同類聚方』『神遺方』などわが国古代から伝わる医書の研究に向かった。 文久2(1862)年京都に上って平田派の尊攘運動に加わり公卿の間に活躍,その後も江戸京都の間を時事奔走した。維新後,監察知事,大学博士,医道御用掛となったが国漢洋の対立から職を追われた。明治6(1873)年7月から相模国大山阿夫利神社祠宮,大講義に任ぜられ,同12年には権大教正となり,この年から14年まで伊豆三島神社宮司兼任した。以後は同15年皇典講究所教授,16年大教正,17年神道事務局顧問,神道本局編輯掛などを歴任し明治前期の神道・国学界に活躍した。<参考文献>神崎四郎『惟神道の躬行者権田直助翁』,同『権田直助集』(『国学体系』20巻)
(平野満)