祝詞の言葉 | laphroaig-10さんのブログ

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祝詞の言葉
 

 神社の祭りの場で神職によつて奏上される祝詞は、たいへん古い時代の言葉が用ゐられてゐます。言葉は時代とともに変化するものですが、なぜ祝詞の言葉は原則として不変なのでせうか。参列者の祭りの趣旨に対する理解といふ点では、わかりやすい口語体で奏上する方がよいのではないか、との考へ方もあらうと思ひます。


 祭りの場の中でも特に祭典(儀礼)は神々とのコミュニケーションが交はされる場です。この儀礼の特徴は、形式性(かたち)と反復性(くりかへし)にあります。その「かたち」の根元は、神代の祭りに求められます。儀礼は祖型(はじめのかたち)への回帰、反復であり、また神代(はじめの時)の出来事の再現でもあります。そのやうな儀礼を「くりかへ」すためは、ある定まつた「かたち」が必要です。これは祭りの作法も同様です。社会や文化が変化しても、変はらぬ大切な、命の源泉ともいふべき「もの」を伝へてゐるのが祭りでありませう。したがつて、祭りの特徴はその保守性にあるとも言へます。


 祭りで奏上される言葉には、さらに、神聖な場でありますので厳粛性(おごそかさ)が要求されま
す。また言葉に神秘的な霊力を認める言霊信仰に支へられた祝詞ですので、必ず声に出して音読されます。それゆゑに、音調(しらべ)も重要となつてきます。そのやうな要求に応へうる言葉として、祝詞の言葉は洗練され伝承されてきたわけです。


 口語でももちろん言霊は宿ります。しかし「堅磐(かきは)
に常磐(ときは)に」といふ祝詞の言葉を口語で「堅い磐のやうにまた永遠なる磐のやうに変はりなく」と奏上したとすれば、確かに、参列者にはわかりやすいですが、厳粛性は損なわは、間延びした言ひざまは、音読には耐えられません。「堅磐に常磐に」といふ祝詞の言葉は決して化石的な古語ではなく、その言葉に古代からの日本人の「磐」に対するイメージとシンボルが潜んでおり、生きた永遠への祈りが凝縮されて伝承されてゐると言へませう。そのやうな大和言葉にこそ言霊はより強く宿ると信仰されてきたのです。また、真心のこもつたうるはしい言葉であればこそ、神々はお受け下さるのです。


 神社の祭典に参列される機会がありましたら、古くから伝はつた祝詞の言葉を耳を澄ませて拝聴して下さい。その祭りの場は、「神代」となり、何とも言へない「おごそかさ」や「ありがたさ」を感じるはずです。神々への感謝と祈りを捧げる祝詞は、言葉による文化の伝承でもあるのです。