賀陽宮邦憲王百年祭詞
此の大室を厳の斎場と祓へ清めて神籬差立て暫し招奉り坐奉る、言はまくも綾に由々しき故神宮祭主神宮皇學館総裁大勲位賀陽宮邦憲王の命の御霊の御前に皇學館大学教授本澤雅史謹み敬ひ恐み恐みも白さく、
宮の命や、慶応三年六月一日大勲位久邇宮朝彦親王の御子として此の現世に生出で坐して、幼名を巌宮また巌麿王と称へ奉り、明治十五年一月より神風の伊勢の国に坐しまして、神宮皇學館に親しく降り立ち給ひ神典、国文、漢学、英学を学び給ひ、また馬術、弓術、琵琶、謡曲をも習ひ修め給ひき。
明治十九年七月一日には、邦憲王と御名を改め給ひ、明治二十五年十一月二十六日、侯爵醍醐忠順の真名子好子の方と結婚の儀を挙げ給ひ、十二月十六には賀陽宮の御名を賜りき。
明治二十八年二月十日神宮祭主の宮に陞り給ひては、明治二十九年三月二十九日神宮皇學館総裁として学館に稜威の御光を添へ給ひ、明治三十三年二月十八日には、神宮皇學館に台臨ませ給ひて、
「神宮皇學館教育ノ旨趣ハ、皇国ノ道義ヲ講ジ、皇国ノ文学ヲ修メ、之ヲ実際ニ運用セシメ、以テ倫常ヲ厚ウシ、文明ヲ補ハントスルニ在リ。」
との令旨を下し給ひしは、最も尊く最も厳しき事にして、皇學館の学びの道の元つ心と長き年月仰ぎ奉り持斎き奉ることとはなりぬ。
然はあれども、明治四十二年春病に臥し給ひ、十二月八日四十三歳を一世の限と入日なす隠ろひ坐ししより指折り数ふれば百年は来経行きぬれば、宮の命の皇學館の教育に御力を尽くし給へる高き尊き御業績を仰奉り偲奉りて百年の御霊祭仕奉らくと、
御前に御食御酒種種の味物を献奉り、学校法人皇學館理事長佐古一冽、学長伴五十嗣郎を始めて教職員学生等参集侍りて太玉串の捧奉りて拝み奉る状を御心も平穏に諾ひ聞食して、今も往先も皇国学びの道の行く手を見晴かし導き給ひ、更には数多の学生等の上にも御霊幸へ給ひて、惟神の大道を万千秋の長五百秋に神路の山の鉾杉の高く厳しく、五十鈴川流るる水の清く遠く守り幸へ給ひ、諸人等各も各も宮の命の御心を忘るる事無く、失ふ事無く弥遠永に受け継がひて、皇御国の大御栄に心を尽くし力を致さしめ給へと謹み敬ひ恐み恐みも白す(平成二十一年十二月八日奏)