『こころとからだと人と自然と。』 -191ページ目

『こころとからだと人と自然と。』

人生5回も死ぬ目に遭えば、否が応でも強く、しなやかになる。
人生を楽しみながら歩く錦ちゃんのブログ。

お金に余裕があると、人生に幅が出る。





幅とはつまり、いろんな体験ができるということだ。





普通の人が買えないようなものも買うことができるし、





たくさん海外旅行へ出かけることもでき、





高価なワインに舌鼓を打ちながら、





贅沢な食事を楽しむこともできる。





しかし体験ができるからといって





必ずしも幸せだとは限らないと思う。





幸せの尺度は人それぞれだと思うが、





僕の幸せの尺度は深化かもしれない。





人生の深みが増せば増す程、喜びが満ちてくる。





つらい経験や悲しい経験をし、それらのこととじっくりと向き合う。





そしてそれらを受け容れることができた時、少し深められる気がする。





そして少し強くなり、人の痛みやつらさも





少し理解できるようになる気がする。


$未熟者でいいじゃないか
ただそこでふと疑問が残る。





社会において他からの支配や助力を受けずに、





存在することが果たしてできるのか?ということである。





社会の中では決して一人で生きていくことなんてできはしない。





誰かしらと必ず結びつき、支えあったり、協力関係にあったりする。





もし全ての大人が自立しているのであれば、





そもそも結婚は必要ないと思う。





そこで先ほどの言葉である。





『自立とは、支えられていることを自覚することである。』





このような捉え方だと、心にすとんと落ち着くのだ。





結婚もこれで説明がつく。





結婚はお互い支え合いながら生きていくことだと思うし、





かといってお互い自立していないわけではないと思う。





またこの捉え方だと介護される立場になったとしても、





介護をしてもらって支えられながら、「自立」することさえできるのだ。





だから大人としての自尊心も傷つかないし、





大きく落ち込むことも少ないかもしれない。





今まで当たり前だと思っていたものが、年をとることによって





失っていく辛さや悲しみは筆舌に尽くしがたいだろう。





しかしそれらを失っても、





人間としての尊厳は失うべきではないと堅く信じるのである。

僕は以前医療・福祉関係の仕事に携わっていたことがある。





人は年齢を重ねていくと、今まで出来ていたものができなくなったりする。





若い頃のように足や手が思うように動かなくなったり、





思わぬところで転倒し、大怪我することもある。





そして障害が残ることもある。





また今まで覚えられていたことが覚えられなくなったりする。





それらのことで介護を受けたり、看護されることが必要になってくる。





そのことで自信を失われる方も少なくなかった。





年配になってかかる鬱症状は、そういった背景からかかることも多いという。





その当時誰かから聞いた、とても印象に残っている言葉がある。





『自立とは、支えられていることを自覚することである。』





確かこのような感じの言葉だったと思う。





自立という言葉を辞書で調べてみると、





他への従属から離れて独り立ちすること。





他からの支配や助力を受けずに、存在すること。





とある。





一般的な使い方としては、「あの人は社会的に自立していない。」とか、





「もっと精神的に自立した方がいいんじゃない?」と言った使い方をする。





僕もそういった使い方は間違いではないと思う。





そして一般論として、大人は自立している者を指すという





認識があるように思われる。

というのは冗談です(笑)


$未熟者でいいじゃないか



唐津でこんなに雪が積もることはめったにありません。





最強寒波の影響で、昨日の朝の小1時間くらいで





みるみる積もっていきました( ゚-゚)( ゚ロ゚)(( ロ゚)゚((( ロ)~゚ ゚





まるで水墨画の世界のようです♪
こんばんわ、蒼です。





このブログを立ち上げる以前にもブログを書いていたんですね。





その当時のブログを読み返しているとちょっと面白かったので、





こちらにもちょくちょく載せてみようかなっと♪





川ちゃん時代の記事です(*^▽^*)





よろしくどうぞ~♪





『当たり前』

当たり前と言う言葉をよく耳にします。





「そんなのやって当たり前だろ。」





やって当たり前。確かにそうかもしれません。





僕自身もつい言ってたりするかもしれませんが、何かひっかかる感じがします。





当たり前を当たり前に続けているからこそ、素晴らしいと思うんですね。





主婦は家事をやって当たり前、家を守って当たり前。





家事にしろ、家を守ることにしろ日々いろんな変化があると思います。





その変化に対応して続けていくことを当たり前だと思っていいものでしょうか?





当たり前と言われてることはものの根幹となることや大切なことが多いように思います。





だから当たり前のことをしなかったら、とんでもないことになることが多いでしょう。





当たり前のように思っている日の光や空気も同じことが言えると思います。





地球誕生より今日まで日の光が地上に届かなかった時期もあります。





その時地上はとんでもないことになってしまいました。





日の光もいつもと同じように燦々と地上に





降り注いでいるからこそ素晴らしいんですよね。





それが過去の歴史からもわかるように、必ずしもずっと続くわけじゃないんです。





僕は大学時代山岳部に所属していて、北アメリカ大陸にあるマッキンリーという





山に登らせて頂いたことがあります。





マッキンリーは標高6,194mあります。





5,000mを越えると空気の濃度は地上の約半分になると言われています。





頂上にアタックをかけるためには、5,200mのハイキャンプと呼ばれる所で





テントを立て2日間くらい過ごします。





空気が薄いと寝ていてもどんどん体力が消耗していきます。





思考能力も低下し、全てが億劫に感じるんですね。





登頂に成功して4,700mのベースキャンプに戻ったとき、




空気の濃さに感動したのをよく覚えています。





空気ってこんなにも大切なものだったんだと。





当たり前だと思っていること程大切なことで、





素晴らしいものだとわかれば感謝せずにはいられないと思います。





この気持ちをいつまでも忘れずにいようと思う今日この頃です。