会議通訳での醜態!最悪!そして降板
続々と米側の参集者が集まってきました。
会議10分前です。
1人、2人と増え続け、最終的には、準備した椅子が足りなくなるという事態になり、陸曹がパタパタ不足分の椅子を準備し始めていました。
「やばいな~、予想外にギャラリーが多すぎる。こりゃ、失敗できないぞ。」と心の中でつぶやいていました。
自衛隊側も、今までA2C2に顔を出したことのなかった面子まで集まってきました。
当時、管制官で陸曹であった私は、このような会議を見たこともなく、どのように議事が進行されるのかさえ知りませんでした。
当時の私は、主に管制塔において管制官として上番しているか、移動式レーダーで訓練しているか(管制の訓練だけでなく、レーダー機材の展開訓練も含む)、体力練成をしているかのような生活をしていたため、会議のようなものには参加したことがなかったのです。
この指揮所演習で行われるもの全てが私にとって所謂おニュー(初物)だったのです。
そして、いよいよ、会議が始まりました。
会議の冒頭、A2C2長が挨拶をしました。
が、彼は今まで通訳を使ったことがなかったため、途中で間を空けて通訳させるということもなく、一気に挨拶を述べてくれたのです。
この当時、私は、通訳の「つ」の字も知らないわけですから、ノートテイキングの要領もわからず、所長が言ったことを全て理解できていない状態でした。
で、恐ろしい間が発生したのです。
全ての参加者は、私に注目しています。
しかし、所長が何を言ったか、思い出せない状態になりパニックになっていました。
「え~と、え~と。」
困っているところで所長は「本日は空域統制調整会議にお集まりいただき誠にありがとうございます。」とだけもう一度言ってくれました。
その他の挨拶は省略してくれたのです。
私は、必死に訳そうとしました。
しかし、出てきた英語は、”Thank you for coming.”だけでした。
最悪です。
更に状況は悪化していきました。
横を見ると管制隊長の苛立った表情を確認できました。
管制隊長もその場で私を指導することができない状況でしたので、仕方なく議事を進めることにしたようでした。
管制隊長は、当時管制幹部の中でも空域統制調整に造詣が深く、彼がいなければこの調整所が回らないと言っても過言ではありませんでした。
当然、彼の議事進行及び発言はかなり専門性が高く同じセクションで働いている私にとっても難解なものでした。
当然、通訳が出来るはずもなく、終いには彼に「お前いい加減にしろよ。早く通訳しろ。」と怒られる始末でした。
そこで、急きょ通訳を派遣してもらうことになったのです。
それで、通訳として派遣されてきたのが若手の2等陸尉の幹部で、幹部普通英語課程を卒業してきた方でした。
私は、その場に立っていることしか出来ず、「早く会議終ってくれ。早く会議終わってくれ。」幾度も幾度も心の中で叫んでいました。
その通訳幹部は、空域統制について専門的な知識は持ち合わせていないものの軍事英語は理解できていたため、何とか無難に通訳をこなしていました。
その働きが認められ彼はこの部署専属通訳として運用されることになったのです。
私は、空域統制調整に関しては野外訓練の際、毎回担当してきた業務でそのことに関しては精通していたつもりでした。
そしてこの業務に関しては実際、隊長と阿吽の呼吸でできていたのですが、多少英語が出来ても通訳となれば全く別物だったのです。
長い会議も終わり、それぞれ三々五々引き上げていくとき米側から”Good Job!”と言われました。
でもそれは、単に落ち込んでいる私を勇気づけるために発せられた言葉で「本当によくやった。」ではありませんでした。
管制隊長からは、当然、感謝の言葉はなく、また、特に会議についての話もありませんでした。
そして、若手の通訳幹部がうちの部署のキーマンとして活躍していったのです。
本当に悔しい思いしかありませんでした。
「軍事の単語さえ、マスターしておけばここも何とか乗り切れたはずなのに。畜生!」それから、私には英語に関するタスクは回ってきませんでした。
実際、寂しく惨めな2週間を過ごさなくてはなりませんでした。
この悲惨な経験が東京の小平学校の門を叩くきっかけとなったのです。
続く