Chapter 4 A Whole New World. 陸上自衛隊見学の当日
哲は近所の自衛隊地方連絡部の事務所を指定された時間に訪れた。自衛官Bは準備万全で待っていてくれた。「そうですね、今日は陸上自衛隊の駐屯地を見学に行きましょう。色々見ることが出来るので就職の際に役立つよ。」
なるほど。それもそうだと哲は思い、彼の提案を受け入れ、いざ陸上自衛隊の駐屯地に向かった。駐屯地に入ってからの印象は、ただただ広いということだった。哲は「こんなに広い敷地に陸上自衛隊というのは存在しているのか。」と驚きを隠せないでいた。「こんなに駐屯地って広いんですか?すごいですね。」時折、隊列を組んで行進する部隊を見かけた。彼らは深緑の戦闘服なるものを着用し訓練に向かっているようだった。哲は「凄い異様な光景だ。」と思った。移動する部隊を見たとき個というものは存在しないんだ、と思った。全ては自分を殺してあの緑の服に身を包み一緒に行動しなければならないんだ、と直感で感じた。なんか、ベトナム戦争出兵前の訓練している兵士達に似た光景だった。哲は、こんなに平和で、バブルで経済も潤っている時代にこのようなことをしている組織が日本に現存することに違和感を覚えた。しかし、哲が見たものはその組織が一般市民が不快感を覚えるような訓練をまさに目の前で実施しているものだった。「こんなに平和で景気の良い時代にこんな訓練をしている組織があるんだ。自衛隊って何なんだろう。なんのために存在しているのだろう。」素直にそう疑問を感じていた。一般社会と隔たりのある彼らにとっての常識を目の当たりにし驚きを隠せないでいた。なんでこのような訓練をしているのだろう。哲は、自分が生きてきた世界と周りの人間の常識を超えた次元の違う世界が存在し、その要求によりこのような世界が存在しているのだろうなということを無意識に感じ始めた。哲の父親はサラリーマンであり、母親はパートで仕事をしていた。国防という言葉すら一家の団欒の場には出てこなかった。映画に近い世界がそこには展開されていた。驚きしかなかった。しかし、そこでの訓練見学を通して規律とか団結というものは感じ取ることができた。哲は、自分の状況を変え、自分を変えるのはこの世界しかないかもしれないと薄々感じ始めていた。しかし、22歳の時点で既に高卒で入隊した人間とは4年もの差があり、この組織では否応なく彼らが先輩であり、人間関係構築の下手な哲は上手くこの世界に馴染んでいけるのか一抹の不安を感じていた。
昼食の時間になり、自衛官Bと隊員食堂に向かった。ゆうに300人は超えるであろう自衛官が長蛇の列を作っていた。その光景も驚くものであった。凄い!人、人、人である。こんな田舎町で、市の中心部に行ってもそんなに沢山の人に出会うことがないのに、ここにはこんなに人がいるのか。世間知らずも甚だしい。隊員食堂では、KP(キッチンポリス)という調理を行うチーム(直長以下、直員数名で構成され、チームは複数存在する)が交代で朝食、昼食、及び夕食を隊員に提供していた。駐屯地に居住する陸曹である未婚の隊員(営内者)は、そこで三食を摂るのである。もちろん無料である。この駐屯地は、駐屯する部隊の数も結構多いため昼食時に食堂は独身隊員で一気に溢れかえる。早めに食事を摂って、営内隊舎の居室に戻って自分のベットに横になり休憩したいのだ。
哲は、並んでいる隊員に目をやった。皆、若い。若いけど、よくわからないが何かしら階級章が戦闘服に縫いつけてある。きっとそれぞれの階級区分に応じて仕事しているんだ、と感じた。また、自分より若そうだけど、彼らの自衛官歴は長く社会人としてしっかり頑張っているのかと思うと、また劣等感に苛まされた。お盆をとり、箸、ご飯茶碗、湯呑を取り、ご飯を自分の食べたい分茶碗によそい、おかず数品と汁物をとって自衛官Bとテーブルについた。隊員食堂もかなり広い。一気に300人定度は収容できるくらいだ。彼は、隊員食堂での配膳の仕方、食器返納の仕方について教えてくれた。また、食事については若い隊員はかなり体力を使う訓練を行っているため、一般成人が摂らなければならないカロリーより若干多めに設定されており、また、管理栄養士によりしっかりとバランスのとれた献立になっているということだった。自衛官Bの提供する情報の多さと、周囲の若年隊員の食事の量と摂るスピードに圧倒され、哲は食事を五感で味わうことができなかった。彼らの常識と自分の生きてきた世界の間の差を埋めるため、頭の中で様々な回路を働かせていた。哲は、一生懸命彼の説明を心の中で反芻し、納得し、次の行動、つまり食器返納のことを考えていた。食事を味わうという本来一番集中すべき行動ができていなかったのである。こんな集団の中で上手くやっていけるのか、心の中で問いかけていた。
その後、自衛官Bは、哲を駐屯地の売店(PX)に連れていった。「遠藤君、ここが売店だよ。床屋、喫茶店、クリーニング、なんでもあるので駐屯地の外に出なくても一通りなんでもできるようになってるんだ。また、駐屯地にはクラブといって酒を飲めるところもあるし施設は充実しているよ。」哲は、「なるほど、なんでもこの駐屯地内でできるようになているのか。」と感心した。実際のところ隊員は当直勤務に従事し、また、ある一定の隊員を営内に残留させ不測事態に備えなければならなず、更には若年隊員は給与も少ないため外出を控える者も多いためこのような施設は隊員の福利厚生のためには必要不可欠なのである。また、自衛官Bは、隊員浴場にも案内し、これで一通りここでの生活が可能であることをアピールしてきた。また、哲を驚かせたものの一つには旧帝国陸軍が使用していたであろう建築物が残されていたことだった。「すごい、まだこんな建物を使っているんだ。率直に夜亡き兵士の亡霊とか出そうな感じだな。」と思っていた。
一通り駐屯地を案内したあと、自衛官Bは隣接する海上自衛隊の基地に案内してくれた。しかし、そこで行われたのは基地の外周を車で一周するというウィンドシールドツアーだった。自衛官Bは、陸上自衛官であるが故、海上自衛隊に関する情報は乏しくても仕方が無かった。特に詳細な説明もなく淡々とそれぞれの施設について説明をしてくれた。その海上自衛隊の基地は航空基地であるため艦船はない。飛行場があり、航空機が任務や訓練を実施しているのが日常光景である。実際、哲も基地のフェンス沿いの道をドライブしているとき海上自衛隊の哨戒機P3Cの離着陸を見たことがあった。中型の固定翼機ではあるが、ターボプロップエンジンの独特の唸り声は、車を運転している際も認識することができる。哲が基地を案内されている時間は、たまたま基地での離着陸訓練をしている航空機がなかったため飛行場は静かなものだった。哲は、内心、格納庫で航空機とか見せてもらえるんじゃないのかと思ったが陸上自衛隊駐屯地見学のインパクトが大きく海上自衛隊見学はどうでもよくなっていた。
to be continued....