占いの館ランプのブログ -1093ページ目

対面鑑定/さくら

こんにちは。 さくらです。

今日から(もう昨日になってしまいました)水曜日、お店で対面鑑定を始めました。

東京ー中野は秋というよりまだ残暑が続いています。

今日来ていただいたお客様、ありがとうございます。

そしてこれから出会うことになるお客様、よろしくお願いします。

さくら

感謝する気持ち/浦蘭

感謝の心は自分を大きく育てます
自分をひと回りも、ふた回りも大きくします
そして喜びとなり楽しさと笑いに発展します。
自分だけでなく周囲の人々も喜び
楽しさと笑いを増やします。。。

真実を語るのは口か眼か/真

こんにちは、真です。

世の中には嘘と分かっていて、嘘をつく人がいます。

嘘も方便といいますが、何かを偽る事を前提とした嘘は、それと見抜くことが難しかったりします。

同時に、嘘をついている本人が、それを嘘と気付かずに真実と信じている場合も見抜くことは難しくなります。

受ける側がある程度の常識を備えていれば、それらの嘘を問題なく回避できますが、嘘をついている本人がそれを真実と信じている場合は、嘘を見抜けても別の問題が発生します。

ある嘘を信じる者にそれが嘘だという事実を突きつけた場合、それは自己の否定以外のなにものでもなく、世界の終わりを見ているようなそんな感覚に見舞われることでしょう。
人によって常識や善悪の判断の基準はそれぞれに違うので、ある人が明らかに嘘である事を真実であると主張することもまた、世界の真実であると言えるでしょう。

世界には曖昧なものが沢山あります。霊とか魂といったものもその中に含まれます。
真実はどこにあるのでしょう。
厳しい選択ですが、私は嘘をつきたくないのです。
だから私は偽りません、いつでも世界と向き合っていたいから。


では、真でした。

愛読書

日中、暑いなと感じることはありますが、すっかり秋らしくなってきましたね。

私の場合は、専ら芸術の秋(笑)
お気に入りのライヴや観劇、そして秋の夜長の読書[e:15]

以前にも紹介させていただいたかもしれませんが、長年の愛読書と言えばこれです[e:734]
「アンジェリク」[e:420]
過去には映画(テレビドラマ?)にもなり、宝塚の舞台化もされ、劇画でも有名な長編作品ですが、あまりの面白さに、毎年ハマッています。

舞台はルイ十四世の時代のフランス。
ボアトゥ生まれの男爵の娘アンジェリク。
愛がベースになっていますが、甘くせつないだけの恋愛小説ではなく、暴力あり、戦争あり、大航海あり、サルタンの後宮から新世界のインディアンまで…とさまざまな展開と飽きないストーリー[e:420]そして何よりヒロインのアンジェリクが素晴らしいんです[e:267]
アンジェリクの愛するペイラック伯爵も実に素晴らしい[e:734]
愛する本質や男女の価値観の違いなども実に繊細に書かれていて、ぜひオススメの26冊(笑)です→講談社の文庫がポピュラーですが、すでに絶版のため、古本屋やインターネットで探してみるしかないのかな??

でも完結編の27巻が、いずれ国内でも発売されるでしょうから、その時に全巻復刻することでしょう。
いつになるかは不明ですが、すでに海外では出版されているので気長に待つつもりです(笑)

生き方の哲学―10・・・浦蘭 嶋多朗 (「みおつくし」10月号より)

生き方の哲学ー10 ulalan@ 浦蘭 嶋多朗「みおつくし」10月号より

国際社会とか情報社会だのと、益々現代社会を生きていくには複雑怪奇で魑魅魍魎とした世界で生きていかなくてはならなくなっています。
追いつけない人々も多く、深く理解したり解釈する暇もなく、誤解と錯覚したまま社会と生活に流されています。
種々雑多な知識と情報に振り回されながら真理を見つける猶予もありません。
鎌倉時代に本覚思想というものがあって、これは生き物はすべて生まれながらに悟りを持ち合わせているというもので、本来、人の心に真理は常にあるはずのものなのに、日々生活しているうちに、いつの間にか備わってしまう心の中の煩悩や雑念が障害になって、真理を見失ってしまうという意味の言葉を唱えていた僧侶がいました。
もっとシンプルに純粋に生活をできれば、いつも真理に目覚めていられるのですが、都会の雑踏にまぎれて生活をしていると、世間並の生活レベルを維持したり、流行を取り入れたり、見栄を張ったりなどで精一杯です。
心に余裕なんか持てるはずもなく、精神にゆとりなんかがあるはずありません。
寂しいといえば寂しい話しですが、これが一般的現実です。
自我欲望があるから無常に苦を感じるわけで、無常の中に生きていても、足ることを知れば幸せは感じられると釈尊は説いています。

一軒の住居を建てることを人生の目標にするか、とにかくお金を稼ぐことを人生の目標にするか、あの世で贅沢三昧できるほどの貯蓄に精を出して生きるか、人生の目的は人それぞれ様々です。
物の価値も、また、人それぞれ違います。
しかし、一生涯かけて大金持ちになっても、人間死ぬ時は、金持ちも貧乏も経帷子一枚着て葬られるのです。
宝石に興味がある人にとってダイヤモンドは数百万円の価値あるものでしょうが、宝石に興味の無い人にとっては、単なる石ころです。
ひび割れした役に立たない茶わんはゴミ箱に捨てますが、骨とう品屋がその茶わんの価値を知るとゴミ箱から拾って持ち帰り、数万円の値札を付けます。
物事の価値は、人の心のあり方、捉え方によってゴミにもなれば宝にもなります。
物質や金銭に片寄って大きな価値を感じている現代社会の多くの人々は、果たして正常な価値観で物事を見据えているのでしょうか。
誤った価値観や錯覚に振り回され、目先の欲に惑わされていると、世界全体、社会全体を見渡すことが出来なくなるのでしょう。

すべての価値観も表裏一体で、価値を見出せる反面、無価値という面も常に持ち合わせています。
幸福の功徳、不幸の暗黒、吉凶禍福は常に一体で付きまとい、いいとこ取りだけはできません。
「人間万事塞翁が馬」というように災い転じて福となったり、幸福であっても不幸は常に幸福の陰に隠れています。
昔、虚無僧という尺八を吹きながら諸国行脚、托鉢修行をする僧侶がいました。
虚無僧の虚無とは、この世は実体の無いものということで、無心の心を大切にしなさいと説いて行脚しました。
損得にこだわらず、欲にとらわれず、価値観を逆転させて考えればすべて解決し、煩悩から解放されると人々に教えていたようです。

最近の世相、ニュースを見ていると「因果応報の理」を感じることがあります、悪い事をすれば悪い酬いを受けるという悪因悪果のニュースが多いようですが、善因善果のニュースはなかなかありません、それだけ腐敗墜落した社会ということなのでしょう。
自分の否を認めずに他人事として逃れようとすれば、たちまち非難の応酬を浴びせられます。
暴力で対応すれば暴力で応戦されます、攻撃で挑めば反撃というかたちで報復を受け、戦争に発展します。
この様なやりとりは男社会の名残りで永遠に引きずられていくのでしょうか。

最近身近で起こっている気になることとしては、言葉のやりとりがあります。
暴力的な言葉を相手にあびせれば何倍もの暴言が返ってきます。
売り言葉に買い言葉のやりとりの中で、どちらかが少し頭を働かせて、慈悲の心で応ずれば、その場は大喧嘩へ発展させずに収まるわけです。
我が言葉粗暴なれば、相手の言葉もまた粗暴なり。我が言葉柔軟なれば、相手の言葉もまた柔軟なり。
と、いうような言葉を残した人が昔いました。
相手に対する自分の言葉や態度、対応の仕方次第で相手や周囲の人は反応するわけですから、相手は自分の鏡というわけです。

デカルトやソクラテスが言うように、大切な事はまず自分自身を知るということでしょう。
知識が広く、多くのことを知っている物知りになるよりも、まず自分を深く見つめ、常に自分自身を知ることの出来る人間になることが一番大事なことです。
政治家でも社長でも、指導者でも自分自身を省みないで、無理矢理詰め込んだ知識だけで人を動かそうとしたり、人の上に立とうとしても、当初ごまかす事はできても最終的には人の心を動かすことはできません。
今の世の中で、自分自身を見つめさせ、自分を省みて知るという事をしっかり教え込む教育機関があるのでしょうか。
知識や教養、学問とは人の心を真っすぐに正すための糧であって、いくら知識や教養だけが膨大にあっても、その本当の威力は発揮できないものです。
現実の社会を見つめてみると、一般大衆の人々の気持ちや心にいろいろな影響を与えているものはテレビという怪物です。
もうすでにデジタルな怪物に人間の心は蝕まれ続けているのです。
学校の教育よりも、家庭の教育よりも、テレビやゲーム、マスコミやメディアの影響力が数倍も大きいということを真剣に考え直すべき時期なのでしょう。