生き方の哲学―10・・・浦蘭 嶋多朗 (「みおつくし」10月号より)
生き方の哲学ー10 ulalan@ 浦蘭 嶋多朗「みおつくし」10月号より
国際社会とか情報社会だのと、益々現代社会を生きていくには複雑怪奇で魑魅魍魎とした世界で生きていかなくてはならなくなっています。
追いつけない人々も多く、深く理解したり解釈する暇もなく、誤解と錯覚したまま社会と生活に流されています。
種々雑多な知識と情報に振り回されながら真理を見つける猶予もありません。
鎌倉時代に本覚思想というものがあって、これは生き物はすべて生まれながらに悟りを持ち合わせているというもので、本来、人の心に真理は常にあるはずのものなのに、日々生活しているうちに、いつの間にか備わってしまう心の中の煩悩や雑念が障害になって、真理を見失ってしまうという意味の言葉を唱えていた僧侶がいました。
もっとシンプルに純粋に生活をできれば、いつも真理に目覚めていられるのですが、都会の雑踏にまぎれて生活をしていると、世間並の生活レベルを維持したり、流行を取り入れたり、見栄を張ったりなどで精一杯です。
心に余裕なんか持てるはずもなく、精神にゆとりなんかがあるはずありません。
寂しいといえば寂しい話しですが、これが一般的現実です。
自我欲望があるから無常に苦を感じるわけで、無常の中に生きていても、足ることを知れば幸せは感じられると釈尊は説いています。
一軒の住居を建てることを人生の目標にするか、とにかくお金を稼ぐことを人生の目標にするか、あの世で贅沢三昧できるほどの貯蓄に精を出して生きるか、人生の目的は人それぞれ様々です。
物の価値も、また、人それぞれ違います。
しかし、一生涯かけて大金持ちになっても、人間死ぬ時は、金持ちも貧乏も経帷子一枚着て葬られるのです。
宝石に興味がある人にとってダイヤモンドは数百万円の価値あるものでしょうが、宝石に興味の無い人にとっては、単なる石ころです。
ひび割れした役に立たない茶わんはゴミ箱に捨てますが、骨とう品屋がその茶わんの価値を知るとゴミ箱から拾って持ち帰り、数万円の値札を付けます。
物事の価値は、人の心のあり方、捉え方によってゴミにもなれば宝にもなります。
物質や金銭に片寄って大きな価値を感じている現代社会の多くの人々は、果たして正常な価値観で物事を見据えているのでしょうか。
誤った価値観や錯覚に振り回され、目先の欲に惑わされていると、世界全体、社会全体を見渡すことが出来なくなるのでしょう。
すべての価値観も表裏一体で、価値を見出せる反面、無価値という面も常に持ち合わせています。
幸福の功徳、不幸の暗黒、吉凶禍福は常に一体で付きまとい、いいとこ取りだけはできません。
「人間万事塞翁が馬」というように災い転じて福となったり、幸福であっても不幸は常に幸福の陰に隠れています。
昔、虚無僧という尺八を吹きながら諸国行脚、托鉢修行をする僧侶がいました。
虚無僧の虚無とは、この世は実体の無いものということで、無心の心を大切にしなさいと説いて行脚しました。
損得にこだわらず、欲にとらわれず、価値観を逆転させて考えればすべて解決し、煩悩から解放されると人々に教えていたようです。
最近の世相、ニュースを見ていると「因果応報の理」を感じることがあります、悪い事をすれば悪い酬いを受けるという悪因悪果のニュースが多いようですが、善因善果のニュースはなかなかありません、それだけ腐敗墜落した社会ということなのでしょう。
自分の否を認めずに他人事として逃れようとすれば、たちまち非難の応酬を浴びせられます。
暴力で対応すれば暴力で応戦されます、攻撃で挑めば反撃というかたちで報復を受け、戦争に発展します。
この様なやりとりは男社会の名残りで永遠に引きずられていくのでしょうか。
最近身近で起こっている気になることとしては、言葉のやりとりがあります。
暴力的な言葉を相手にあびせれば何倍もの暴言が返ってきます。
売り言葉に買い言葉のやりとりの中で、どちらかが少し頭を働かせて、慈悲の心で応ずれば、その場は大喧嘩へ発展させずに収まるわけです。
我が言葉粗暴なれば、相手の言葉もまた粗暴なり。我が言葉柔軟なれば、相手の言葉もまた柔軟なり。
と、いうような言葉を残した人が昔いました。
相手に対する自分の言葉や態度、対応の仕方次第で相手や周囲の人は反応するわけですから、相手は自分の鏡というわけです。
デカルトやソクラテスが言うように、大切な事はまず自分自身を知るということでしょう。
知識が広く、多くのことを知っている物知りになるよりも、まず自分を深く見つめ、常に自分自身を知ることの出来る人間になることが一番大事なことです。
政治家でも社長でも、指導者でも自分自身を省みないで、無理矢理詰め込んだ知識だけで人を動かそうとしたり、人の上に立とうとしても、当初ごまかす事はできても最終的には人の心を動かすことはできません。
今の世の中で、自分自身を見つめさせ、自分を省みて知るという事をしっかり教え込む教育機関があるのでしょうか。
知識や教養、学問とは人の心を真っすぐに正すための糧であって、いくら知識や教養だけが膨大にあっても、その本当の威力は発揮できないものです。
現実の社会を見つめてみると、一般大衆の人々の気持ちや心にいろいろな影響を与えているものはテレビという怪物です。
もうすでにデジタルな怪物に人間の心は蝕まれ続けているのです。
学校の教育よりも、家庭の教育よりも、テレビやゲーム、マスコミやメディアの影響力が数倍も大きいということを真剣に考え直すべき時期なのでしょう。
国際社会とか情報社会だのと、益々現代社会を生きていくには複雑怪奇で魑魅魍魎とした世界で生きていかなくてはならなくなっています。
追いつけない人々も多く、深く理解したり解釈する暇もなく、誤解と錯覚したまま社会と生活に流されています。
種々雑多な知識と情報に振り回されながら真理を見つける猶予もありません。
鎌倉時代に本覚思想というものがあって、これは生き物はすべて生まれながらに悟りを持ち合わせているというもので、本来、人の心に真理は常にあるはずのものなのに、日々生活しているうちに、いつの間にか備わってしまう心の中の煩悩や雑念が障害になって、真理を見失ってしまうという意味の言葉を唱えていた僧侶がいました。
もっとシンプルに純粋に生活をできれば、いつも真理に目覚めていられるのですが、都会の雑踏にまぎれて生活をしていると、世間並の生活レベルを維持したり、流行を取り入れたり、見栄を張ったりなどで精一杯です。
心に余裕なんか持てるはずもなく、精神にゆとりなんかがあるはずありません。
寂しいといえば寂しい話しですが、これが一般的現実です。
自我欲望があるから無常に苦を感じるわけで、無常の中に生きていても、足ることを知れば幸せは感じられると釈尊は説いています。
一軒の住居を建てることを人生の目標にするか、とにかくお金を稼ぐことを人生の目標にするか、あの世で贅沢三昧できるほどの貯蓄に精を出して生きるか、人生の目的は人それぞれ様々です。
物の価値も、また、人それぞれ違います。
しかし、一生涯かけて大金持ちになっても、人間死ぬ時は、金持ちも貧乏も経帷子一枚着て葬られるのです。
宝石に興味がある人にとってダイヤモンドは数百万円の価値あるものでしょうが、宝石に興味の無い人にとっては、単なる石ころです。
ひび割れした役に立たない茶わんはゴミ箱に捨てますが、骨とう品屋がその茶わんの価値を知るとゴミ箱から拾って持ち帰り、数万円の値札を付けます。
物事の価値は、人の心のあり方、捉え方によってゴミにもなれば宝にもなります。
物質や金銭に片寄って大きな価値を感じている現代社会の多くの人々は、果たして正常な価値観で物事を見据えているのでしょうか。
誤った価値観や錯覚に振り回され、目先の欲に惑わされていると、世界全体、社会全体を見渡すことが出来なくなるのでしょう。
すべての価値観も表裏一体で、価値を見出せる反面、無価値という面も常に持ち合わせています。
幸福の功徳、不幸の暗黒、吉凶禍福は常に一体で付きまとい、いいとこ取りだけはできません。
「人間万事塞翁が馬」というように災い転じて福となったり、幸福であっても不幸は常に幸福の陰に隠れています。
昔、虚無僧という尺八を吹きながら諸国行脚、托鉢修行をする僧侶がいました。
虚無僧の虚無とは、この世は実体の無いものということで、無心の心を大切にしなさいと説いて行脚しました。
損得にこだわらず、欲にとらわれず、価値観を逆転させて考えればすべて解決し、煩悩から解放されると人々に教えていたようです。
最近の世相、ニュースを見ていると「因果応報の理」を感じることがあります、悪い事をすれば悪い酬いを受けるという悪因悪果のニュースが多いようですが、善因善果のニュースはなかなかありません、それだけ腐敗墜落した社会ということなのでしょう。
自分の否を認めずに他人事として逃れようとすれば、たちまち非難の応酬を浴びせられます。
暴力で対応すれば暴力で応戦されます、攻撃で挑めば反撃というかたちで報復を受け、戦争に発展します。
この様なやりとりは男社会の名残りで永遠に引きずられていくのでしょうか。
最近身近で起こっている気になることとしては、言葉のやりとりがあります。
暴力的な言葉を相手にあびせれば何倍もの暴言が返ってきます。
売り言葉に買い言葉のやりとりの中で、どちらかが少し頭を働かせて、慈悲の心で応ずれば、その場は大喧嘩へ発展させずに収まるわけです。
我が言葉粗暴なれば、相手の言葉もまた粗暴なり。我が言葉柔軟なれば、相手の言葉もまた柔軟なり。
と、いうような言葉を残した人が昔いました。
相手に対する自分の言葉や態度、対応の仕方次第で相手や周囲の人は反応するわけですから、相手は自分の鏡というわけです。
デカルトやソクラテスが言うように、大切な事はまず自分自身を知るということでしょう。
知識が広く、多くのことを知っている物知りになるよりも、まず自分を深く見つめ、常に自分自身を知ることの出来る人間になることが一番大事なことです。
政治家でも社長でも、指導者でも自分自身を省みないで、無理矢理詰め込んだ知識だけで人を動かそうとしたり、人の上に立とうとしても、当初ごまかす事はできても最終的には人の心を動かすことはできません。
今の世の中で、自分自身を見つめさせ、自分を省みて知るという事をしっかり教え込む教育機関があるのでしょうか。
知識や教養、学問とは人の心を真っすぐに正すための糧であって、いくら知識や教養だけが膨大にあっても、その本当の威力は発揮できないものです。
現実の社会を見つめてみると、一般大衆の人々の気持ちや心にいろいろな影響を与えているものはテレビという怪物です。
もうすでにデジタルな怪物に人間の心は蝕まれ続けているのです。
学校の教育よりも、家庭の教育よりも、テレビやゲーム、マスコミやメディアの影響力が数倍も大きいということを真剣に考え直すべき時期なのでしょう。