Nature Pawer 自然の癒しと愛犬ジュンと。

   *****  答えは 自分の中に ある   *****
クリスタルヒーリング・レイキアチューメント
LA LUZ は、スペイン語で 光 という意味です。
心の中のあたたかな光とつながってよりよい人生を歩いて行きましょう。

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じゅんじゅん、大好きだよ②

純平を病院へ連れて行く日の朝、夜中に何度かもうダメかもという瞬間を克服し、純平と朝日を見ることが出来ました。ずっと靈氣をしていました。

8時30分の予約開始で、アプリから登録を入れて、順番関係なく、病院へ向かうことにしました。
夜中の純平は、シュガーレディのお肉を何度か分けながら、食べる、とキッチンへ行きました。そのたびにおいしいお肉を2,3口食べて、水素茶の黒豆水素茶を美味しそうに飲んでくれました。この時普通のお水はもう要らないと飲まなかったのですが、黒豆水素茶はしっかり飲んでくれました。

朝、お肉も最初は食べないと顔をそむけたのですが、夜中からずっと相談していたジュンのトリマーさんから、お薬だけは飲ませて行って、と言われていたので、お肉にお薬包んでいたので、「ジュンちゃん、お願い。一口だけ食べて」って言うと、ジュンは言葉がわかったかのように1口だけがんばって食べました。
玄関まで歩けたジュンは、玄関の段差で立ち止まりました。
ジュン、抱っこしようか?って声をかけると、純平は、考えて、一人でボク歩けるよ、と言わんばかりに、ピョンと玄関へ下りました。
その時のポンチョを着て歩くジュンの後ろ姿がずっと目に焼き付いています。純平が生きて我が家を出た最後の後ろ姿です。そのまま車には抱えて乗せて病院まで行きました。
着いて受付に私が走り、「昨晩から様子がおかしいんです。息も荒いし食欲もなくなっています」と告げると順番繰り上げて診察してくださいました。
診察室で純平はもう立ち上がれなかった。。ジュンを見た先生は速攻酸素室へジュンを連れて行かれました。

さっきまで歩いてたのに、、でも、、きっと大丈夫だよね、、ジュン。。
突然の展開に頭がついていかない感じでした。

14時から午後の診察が始まるので、その時まで酸素室で様子見ましょう、と言われて、一旦私は戻ることに。
12月も同じ状態だったけど、ジュンは復活した。こんな急にどうこうなるわけがない、、そう思いながら。
ただ、昨晩のジュンからのお別れがあったので、覚悟もしていました。。

14時、病院へ行ったときには、肺炎が酷くなっていること、そして酸素が50まであげていること。今は窓をあけて手を入れることすら命に係わるかもしれないことを告げられました。撫でてあげられない、、。外からジュンちゃんと呼ぶとジュンが気づいて立ち上がろうとします。お迎えに来たと思ってしまう。。
無駄な体力を使わせたくなくて、またあとで来るから、伏せだよ、ジュン。と話しかけて、診察室で話を聞きました。

連れて帰るにしても酸素室をレンタルしなければいけないこと。ただ酸素室のクオリティは病院ほどはないということ。急変する可能性もあること。治療で復活する可能性もある。

どちらにせよ、まず酸素室をレンタルしないと翌日朝はお店はお休みだろうから先にレンタルショップに行くことに。
そこで、話をしていたら、酸素40まで出ますと言われたから、今病院で50なんです、、と言ったら、「そんなに危険な状態なんですか?」って言われて、やっぱり危険だよね、、って現実を突きつけられた気がしました。。
いろいろ話していたら、、もしかして、ワンチャンのお名前は何ですか?って聞かれて、答えると、武雄のドックラン行かれてせんでしたか?って。行ってましたよ、って言うと。やっぱり!ってその方もワンチャンを飼っていて、武雄でお会いしていた方でした。ジュンがかわいかったからお写真撮ってる持ってるって。
「こんな再会は嫌だな」って言われて、私も涙が出てしまいました。。

酸素50で酸素室からは普通出されませんよ、って言われて、「いえ、明日の朝、危険ならもうおうちに連れて帰ります」って私がお願いしたんです、って。ほんとは今日の夜もここに泊まれませんか?って先生に聞いたら、それは、、ってもちろん断られたので、明日の朝一番早い時間に行きます、ってお願いしたんです。って答えました。
スタッフの方はそうなんですね、ってわかってくださって、病院の酸素室から出して車に乗せる間に亡くなったというお話も聞くので、家に着くまで、酸素缶を口でシュッシュってしてあげてください、って教えてもらいました。

酸素ルームを借りて、酸素缶を買って祈るような気持ちで私は再度病院へジュンの面会に行きました。
少し落ち着いています、と言われてジュンの顔を見て、「明日の朝お迎えに来るからね。ジュンちゃんがんばって」そう話しかけて自宅へ戻りました。

酸素ルームの準備をしながら祈りながら、お部屋もお掃除していた時でした。。

パタパタパタ、、キッチンで純平の足音が聞こえました。

ジュン? いや、純平は病院だった、、。

そう思った時、純平、、状態悪いのだろうか、、と不安がよぎりました。
祈るしかできなかったですが、ジュンちゃん、大丈夫。明日朝お迎えに行くからね。そう祈りました。。
その数十分後、夜中1時17分 携帯電話が鳴ったんです。。
 


倒れるちょっと前から、亡くなる前まで、気が付くとジュンは

いつもこうやって私をじーっと見つめていました。

ジュンちゃん、どうした?
私はいつもジュンにそう話しかけて笑いかけていました。
自分があまり長く一緒に居れないことをわかっていたのでしょうね。

じゅんじゅん、大好きだよ①

愛犬純平が、2015年2月15日1時13分頃、虹の橋を渡りました。
15歳11か月でした。16歳のお誕生日に一緒にジュンの大好きなケーキ食べようって思ってたけれど、叶わなかった。

 

ジュンちゃんの記録としてここに記しておこうと思います。

昨年15歳のお誕生日越えたころから、足腰が少し弱って来たなぁ、、って思っていました。歳なりなのだろうと。

いつもなら車の音で玄関までお迎えに出てきていたジュンが、ベットから起きなくなりました。

トレーナーに久々に通い、シニアケアでマッサージをしてもらい、またお迎えしてくれるように復活。

 

5月 量子力学のプログラムと出会い、転写してもらった服や首輪をつけて、足腰が少しだけ回復しました。

8月 また別の宇宙とコンタクトとり環境整える水、シールをいただき、部屋の電磁波対策などもやりました。

 

純平の脇に出来た脂肪種がちょっとずつ大きくなり、病院で見てもらいましたが、良性だから年齢的にも手術するよりそのまま出の方が負担が少ないよ、と言われました。胸にもぷよぷよの脂肪種があり、こちらは夏から飲ませ始めた天然水素水のおかげだと思いますが、きれいに消滅しました。


時は少しずつ、穏やかに、、私とジュンを包んで流れて行く。。

 

少しずつ反応が鈍くなって来て、お目目が白く濁って来て、、

いつの間にか吠えなくなって、雷も怖がらなくなってきた。

少しずつ、いつか来るお別れのことも脳裏をよぎるようになっていました。

相変わらず、家の中を私が移動するたびに、一緒に移動して、そばで眠るジュン。

気が付くとじ――っと私を見つめているジュン。

そんなジュンが倒れたのが、12月頭。

 

家の中でベットから立ち上がって歩きながらフラフラとなり、バタンと倒れてしまったのです。

その夜は息が苦しそうで、、私はレイキを夜中ずっと行いました。

不思議なことに観察に貼って上げたシールのあたりから緑色の光が大きく広がり純平の胸あたりを移動しはじめました。

なんだろうと思い手を外すと光が消えます。どうやら私のレイキの光が純平を癒してくれているようでした。

肺から胸あたりだ、、そう感じていました。

 

翌朝はいつものように復活してごはんもしっかり食べれた純平、

その日のウンチさせに外に出て、すぐ近くの氏神様の前で、来年私が最優先すべきことが明確になりますように、、とお祈りしている最中にまた足元で純平が突然倒れて痙攣をおこし呼吸困難に。。


そのままジュンを抱きかかえて自宅へ向かいました。少ししたら落ち着いて歩けるようになったジュンですが、そのまま病院へ連れて行くことにしました。

が、また病院でも倒れてしまいました。。

 

心臓かもしれないと、先生が心臓専門医を紹介してくださり、そのまま病院を移動。

そこで検査の結果、酷い肺炎と軽い心臓弁膜閉鎖症であることを告げられました。

心臓はまだそこまで酷い状態ではなく年齢なりの病気であること、

肺炎の方が深刻で酸素が半分以下しか吸えておらず、酸欠になったのだろうと。

また、、肺。。母の最期を思い出し、純平まで同じような苦しみの中なのだろうか、、と切なくなりました。

 

そのまま3日間入院。回復して元気になり退院出来ましたが、お薬りの日々が始まりました。

ここ数年は、シュガーレディのささみをお願いしていたから、質のいいお肉とフードを完食するくらいに食欲が出ていました。食欲があるうちは大丈夫ですよ、と言っていただきました。

 

令和8年のお正月はゆっくりとジュンと過ごすことが出来ました。

 

2月に入るまでは穏やかな日々を一緒に過ごしました。

 

ただ、12月以来、息が少し荒く、まただんだんと階段を上り下りが辛そうでした。食欲があれば問題ない、と言われていましたがその食欲も少しずつなくなって行きました。


そして、2月12日に再び病院へ連れて行き、新たなお薬で様子見と言われたのですが、よくなる傾向はみられず、、
13日、ジュンがごはんを食べないと、帰宅した時に姉から聞きました。

 

呼吸数をみると明らかに昼私が仕事に出る前より早くなっています。時間はもう17時すぎ。。何かあったら電話ください、と言われていましたが、時間外の病院は誰も電話にはもちろん出ることはなく、、翌朝まで寝ないで純平と一緒に私は寝袋に変えて過ごすことにしました。寝袋意外とあったかいよ、ってジュンに話しかけながら。

14日に入ったころ、横に寝ているのも辛そうな中、ジュンが横になる場所に私も寄り添ってレイキをずっと送り続けていました。スッとジュンがまた立ち上がろうとするので、おしりを一緒にあげてあげるの繰り返し。

その夜は、立ち上がって動くのはただただ息が苦しいから。それまでは横になり寝ながら息が苦しそうだったのですが、

病院で息が本当に苦しくなったら、横になるのが苦しくて、立ったままが楽になる、と聞いていたので、明らかにこれはそうだと思いました。


何度もジュンのあとをついて寝ては立ち上がるジュンを手伝いながら、、の中で立ち上がり、私の前に純平がよろよろと歩いてきました。

満面の笑みで私の前に立ちじーーっと私を見つめ続ける純平。

そのお顔は少しボケが入ってからのお顔と違い、いつものジュンのお顔でした。しっかりと意志をもったお顔。

その瞳が愛にあふれていて、、「母ちゃん、母ちゃん」って声にならない声が聞こえました。その「母ちゃん」の中に愛をたくさん私は感じ取りました。涙が止まらなくなりました。あぁお別れが近いんだな、、と。

 

「ジュンちゃん、今日もかわいいねぇ。ジュンちゃん、大好きだよ。うちの子になってくれてありがとう。もうすぐ16歳のお誕生日だよ。一緒にケーキ食べよう。また桜の花も見に行かなきゃね。ジュン、かわいいね。」っていっぱい撫でて話しかけました。

ジュンは嬉しそうに私の言葉を聞いていまいた。

 

ジュンを自分に引き寄せて、脂肪種が下にならないように向きを整えて抱きしめました。何度かもうダメかもと思う状況を乗り越え朝を迎えることが出来ました。

もう朝ごはんもお水も入らない状態で、、かろうじて、最高においしい鶏肉にお薬を巻いて、一口だけ食べてくれました。

病院に予約を入れて、病院へ連れて行くと、そのまま酸素室へ入ることになりました。

酸素がほとんど吸えてない状態になっていて、、今出したら、そのままになる可能性も高いことを聞きました。

復活したら、検査しましょう、と。お昼くらいまで様子見で。

14時にまた診療開始とのこと、私は一旦戻り、また14時に面会へ行くことにしました。

 

気温差が危ないからとトリマーさんがジュンにプレゼントしてくれたポンチョ。お外に出る時はこれを常につけてから出るようにしていました。ブルーがとっても似合ってる。

自宅介護、最後の日々とフラーレン水晶

母を自宅介護で看取ると決めたのは、奇しくもコロナ禍に突入したことがきっかけとなりました。コロナになっていなかったら、入院になっていたかもしれません。

 

脳梗塞で倒れた母の自宅介護をはじめて1年後、今度は肺がんの宣告を受けた母。

一生懸命また歩けるように、手が動かせるようにとリハビリがんばって来て指も少し動くようになり腕も少し動くようになり、喜んでいた矢先で本人もどれだけ落ち込んだでしょうか。

 

わかった時はステージ4で余命2週間から長くても3ヶ月と宣告されました。

緩和ケアの予約もしておいた方がいいですよ、と言われましたが、寂しがり屋の母なので自宅で最期までみとることを決めました。

 

ひと昔前でしたらとてもできなかったと思いますが、今は訪問看護が日に3回、ドクターも来てくださり、リハビリも自宅で受けられる。

姉も比較的近くに居て最後は交代で介護入ってもらえたので安心して介護することが出来ました。

 

夜中のトイレだけは付き添わないといけないので、毎晩2時まで起きていてトイレまでさせて、朝5時に起きて母のトイレからスタートという日々でした。

 

日に日に呼吸が苦しくなって行く母。なくなる1週間ほどまえからは呼吸が早い母。
母の手を握り足を温める。
1日中、ウトウトしては目をあけ息があがる母。

そんな日が続きました。
 

お母さん、子守歌うたおうか、というと酸素吸引器の中で小さな声で、歌って、という。

「ねんねんころりよ、おころりよ。坊やは良い子だねんねしな」
母の胸をトントンしながら歌う私。
酸素吸引器の中でくちびるが動いている。一緒に母は歌っている。

途中から歌詞がわからなくてハミングする。
「はぁ、苦しか」息もとぎれとぎれに歌いながら酸素吸引期の中でそういう母。
苦しいならうたわんでいいよ、私が歌うけん。というとうなずく母。

 

こんなに母の手を握り続けたことは今までないよね、というくらい、毎日手を握ってあげてた。

 

最後の日は、いきなり酸素が80になりあがらず、仕事先から引き返した。

甥っ子たちは間に合わなかったけど、親子水入らず姉兄と私とで母をおくることが出来た。

 

よく、人に自宅介護よくやったね、と言われるけど私は他に選択肢なかったかなーと思っている。

リハビリ頑張って、少し成果出てきて、これからって時にあっという間に介護生活終わってしまった感がある。

 

母には日々レイキとクリスタルのフラーレン水晶で調整していました。
 

不思議なことに、いつもは乱れている母のオーラが、亡くなる1週間前ぐらいから、とても綺麗でした。苦しがって息が浅いのに、なぜだろう、、と思ってましたが、人はなくなる前にオーラが整って肉体から離れる準備をする、と聞いて納得しました。


最後の最後まで私が作ったアメジストのフラーレン水晶を手に握ってくれていました。
それを見た時に、クリスタルが母を助けてくれたのだと感謝しました。

そして、私はずっと休止していたクリスタルヒーリングをまたやらなければと思いました。



 

 

 

 

 

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