3月頃から、夜歩くことが習慣になってきているけれど、
8月になってからは、早朝歩くようになり、今に至っています。

 

 

 

 

大体、5時半頃からかな。


8月に入った頃は、朝焼けの空に、時折ふと秋の気配が感じられるくらいだったけれど、日に日に体感は変化し、今はもうすっかり秋の空気感。


その繊細な変化を日々感じるのがとても気持ちよくて、それを楽しみに、この暑い夏を越えていけたような気がしています。

 

 

 

 

 

朝の散歩はいつも、近くの神社か寺へ。

早朝の境内は、ほとんどといっていいほど人の気配がなく、
静寂の中に気兼ねなく身を置き、祈ることができます。

 

 

 

 

 

 

そんなある時、不意に、
私たちはどんな時も変わらず深く愛され、いつだって守られているということを、

体感ごと知る瞬間がありました。

私たちがどうあろうと、それを知ろうと知るまいと、
またどのような観念でどのような世界をどのように生きていようと、
どの時も私たちは等しく、丸ごと愛され、そのまま守られ、生かされている…

 

 

 

 

 

その強いホールド感は、抽象的で曖昧な何かではなく、
むしろ明確で具体的で、とても分かりやすく感じるほどでした。

それはもしかしたら、与えられているようで、こちら側もまた愛し、守り、

全てを丸ごと受容しようとするところに身を置いていて、
その相互の何かで、より確かな何かが感じられているのかもしれないと

ふと思いました。

 

 

 

 

 

常に怯え、見張り、

なんとか逃れようと画策すること、イコール生きることだという観念がエゴにくっついているときでも、

どうあっても私たちは愛し愛され、守り守られています。

 

 

 

 

だけれど…

 

その観念を払拭し、真なるものと意識が和合するとき、そこにはさらに想像を超えた安寧があり、それそのものとなる。
平穏、安穏はただの静けさではなく、その中にひしめく美しい躍動があることを知る。
その躍動が、命そのものなのだと知る。

 

 

 

 

 

ちなみに、払拭するということは、「気づく」ということに近いような気がしています。


気づかない時と気づく時では、比べようのない何かがあるのです。
気づくこと自体が変容...

そして気づく時、怖れだったり混迷だったり、そういった余分な何かは、すっかり取り払われている優しさがあります。

優しさは全てを包括しつつ、本当に大切な何かに、

この身ごと運んでくれる力に満ちていて、

それが安寧そのものなのだとまた気づかされます。

 

 

 

 

明日から9月。

新しくなっていきますね。


どこまでも刷新していく喜びを生かされていることに感謝しつつ...

 

9月が皆さまにとって優しさや喜びに満ちた日々でありますように。

感謝に満ちた日々でありますように。

 

いつもありがとうございます。

 

 

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