今回は、以前も取り上げた久保田城跡をレポートします。
現在、久保田城跡は千秋公園として整備され、市民の憩いの場として、また、桜の名所としても親しまれています。
築城は慶長八年(1603)年五月に開始され、翌年の八月には初代藩主佐竹義宣が久保田城に入りました。
義宣が湊城から居を移した後も城普請は続けられ、完成したのは寛永八年(1631)頃といわれています。
現在、久保田城跡は千秋公園として整備され、市民の憩いの場として、また、桜の名所としても親しまれています。
久保田城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったことが挙げられます。
こちらは、久保田城御隅櫓です。
市政100周年を記念して復原された御隅櫓は本丸の北西隅に位置し、史料に記されている2階造りを基本とした設計で、最上階には展望台が設けられています。
櫓とは、見張り場と「矢倉」すなわち武器庫の役割を担った建物のことです。
近世の櫓は「隅櫓」と「多聞櫓(多聞長屋)」に分類でき、土塁や石垣などの城郭(城の囲い)に沿って設けられた多聞櫓に対して、城郭の隅に作られた櫓は隅櫓と呼ばれています。
この辺りは、久保田城本丸跡になります。
久保田城が築かれた新明山(しんめいやま)は、三つの高地からなる標高約40m程の起伏ある台地で、別名三森山(三森山)とも呼ばれていました。
本丸は最も高いところを削平や土盛をして、平らにして築かれました。
佐竹義堯銅像です。
第12代秋田藩主佐竹義堯(よしたか)(文政8年(1825)~明治17年(1884))は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では新政府方に属して戦いました。
久保田城表門です。
本丸の玄関口として警備上から重要な地点とされており、南側には門の警備と管理をする「御番頭局(ごばんがしらべや)」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)」を置いて厳重な守りを固めていました。
こちらは、城内から撮影した表門です。
この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造2階建て瓦葺きの櫓門です。
御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)です。
久保田城内に唯一現存する藩政時代の役所建物であり、宝暦8年(1758年)から安永7年(1778年)の間に建築されたものと推定されています。
久保田城内のニノ門(長坂門)の開閉と城下の警備、火災消火を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所です。
次回は、千秋公園内にある八幡神社などを取りあげてみようと思います。
それでは、また・・・。
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