「あれ、なんてタイトルだったっけ?」

となんの関連性もない出来事の中で唐突に読んだ本や観た映画を思い出すことがある。

手掛かりは断片的にしか覚えていない内容を基にしたキーワードだけ。

 

そうなると気になって仕方がない。

一昔前なら映画をレンタルしまくるか図書館や本屋へ行くか周囲の人に訊きまくって調べるしかなかっただろう。

いまはありがたいことにグーグル先生がいてくれるから余計な労力をぐっと減らして探し物ができる。

 

今回私が探したのは小学生の頃に読んだ児童書。

割と内容をおぼえていたのと、意外にも有名な童話作家の有名な本だったらしく、

同じように探している人がいたおかげでキーワードで探し出せた。

 

「ドコカの国にようこそ!」

大海 赫(おおみ あかし)作・画

 

人気作だったせいか復刊ドットコムからちゃんと復刻されていた。

 

当時はなぜか手に取る本が偶然にも明るく健全なファンタジー冒険物語ばかりという本選びに恵まれた状態が続いていた。

その中でたまたま手に取ったのがこのアングラ系の本である。

内容が暗くて衝撃的で痛々しくて、当時の私は耐えられなくなって最後まで読めず、結末だけこっそり読んで終わらせた覚えがある。

 

内容は、

主人公の男の子が夢の中で男の人に助けられ、喜んでその人の指示通りに行動すると誓う。

けれどその人が与える試練には夢も希望も正義もロマンもない。

大人に殴られて血を流したり、触るのも怖くて気持ちの悪い人形にキスさせられたりと残酷な指図ばかりが続く。

最後はすべてを捨てて女の子と幸せな国へ旅立ってしまう――そういう後味の悪い話だったと記憶していた。

 

読み返す気には全然ならないまま幾星霜がすぎ、大人になったある日(昨日)、

何の脈絡もなく「あれ? あの本、なんてタイトルだったっけか?」とふいにその本の記憶が浮かび上がってきた。

 

本を捜索してついにタイトルも出版社も発見。

こうなると強烈に読書欲が掻きたてられてしまう。

 

オトナになったんだし、あの日のトラウマが克服できるかもしれない。

そんな怖いもの見たさも手伝って図書館で本を探して読んでみた。

 

あらすじは私が記憶していたのとそう変わらなかった。

ただし、大人になるに従ってつんだ嫌な経験、苦い経験で耐性がついたのと、

昨今の小説、マンガ、映画の残虐非道っぷりのほうがひどくて、

「レストランで紙ナフキンを注文して食べろ」

「芋虫のぬいぐるみを絶対に脱がないで目的地へたどりつけ(歩きにくくて這っていたら、途中、通りがかりの子供たちにリンチされる)」

とか読んでも、

昔受けたほどつらいショックを受けることなくすんなりと読めてしまった。

 

ああ、オトナになるって恐ろしい。

 

そうよねえ、意外とこうやって思い出したものって掘り起こしてみると案外色褪せて見えたりするのよねー。

 

そう思いながら読み進み、ついに結末を迎える。

 

私が愕然としたのはここからだった。

 

それまでは登場する主人公は「フトシ」、女の子は「アヤ」と名前で呼ばれていた。

ところが、行けば幸せになれる国「ドコカの国」という伸縮自在の空飛ぶ二段ベッドに乗り込んだ途端、彼らは「男の子」「女の子」としか表記されなくなる。

もう名前で呼ばれることはない。

彼らは「ドコカの国」の中では「ヒト」としか識別されないのだ。

なぜならそこにいるのはわずかな動物、植物たちだけ。

人類は彼らだけなのである。

 

それと同時に一緒に旅をしてきた読者側もここで彼らと切り離される。

主人公フトシは「男の子」という個体となり、別次元の存在となるのだ。

 

誰に別れを告げず、彼らは仲間を探しに出発する。

あたかも宇宙船で旅するが如く。

そして、「ドコカの国」にあるのはたくさんのベッド、使われていないテーブルや椅子、衣裳部屋の真ん中に一つだけ立っている鏡、リンゴの木…。

 

最初、リンゴの木もあるから「真性アダムとイブ」を書いた話かと思ったけれど、

船を想起させるものに動物たちも乗り込んでいることから、この話は「真性ノアの箱舟」なのだとわかった。

例の選民思想の権化みたいな聖書の一節である。

 

箱舟に乗り自由になれるのは試練を乗り越えた選ばれた者だけ。

それは愚鈍であっても純粋で実直な忍耐強い人格を持った人物。

そういえばかっこいいけれど、明るい兆しや幸福感とは縁遠い、どこか釈然としない読後感がを残す物語である。

 

私が作者の意図に反して曲解しているならそれまでだけれど、

私には作者が何を思ってこの物語を児童向けに書いたのかは理解ができない。

安直に解釈すれば

「家族や世間とのつながりを断ってでも選ばれた人間になるほうが素晴らしい世界が待っている」

という主張になってしまうが、そうではないと願いたい。

 

「あのときのあれはなんだったっけ」と記憶に刺さって消えない作品は、後年私たちにとってなんら意味を持つものなのかもしれない。

かつての印象や衝撃を終息、決着させる代わりに、新たな謎や課題、発見を与えてくるのだから。