赤坂山王ホテル 

  大学2年の夏休みに、当時赤坂にあった山王ホテルでジャニター(用務員)のアルバイトをしたことがあります。赤坂の山王ホテルと言えば、戦前二・二六事件の時には反乱軍の司令部になったことで知られていますが、戦後はアメリカ軍に接収され、私がアルバイトをしていた時は、在日アメリカ軍関係者やその家族専用の保養所・厚生施設になっていました。

昭和51年の夏

 この年は夏休みの帰省をやめて、夜は神田外語学院の夏期講習に通っていました。山王ホテルの求人に応募したのも、アメリカ人が出入りする施設なので英語力上達に少しは役に立つんじゃないかぐらいの軽い気持ちからでした。

ジャニター(用務員)

 用務員の詰め所はホテルの地下1階にあり、薄暗い事務室に北海道人にしては珍しくちょっと意地の悪い帯広出身の年配のマネジャーと、他には50代くらいのおじさん・おばさん達や学生アルバイトなどで常時10人ほどのジャニターがいたと思います。ただ、アルバイトの期間中に彼等が英語で会話している場面を見ることは最後までありませんでした。

日常業務

 ジャニターの通常業務はホテル内の清掃ですが、印象に残っているのは、ガーデンテラスのテーブルに備え付けられているコンロの掃除です。テーブルは全部で10台ほどあって、コンロに黒くべっとりとこびり付いた油汚れの掃除が、ジャニターにとっては一番手間のかかる仕事でした。前夜にテラスでバーベキューパーティーがあった翌日の定番作業でした。また、軍関係者の会議がある日には、会議室のテーブルの上に灰皿とKENTのロゴの入ったマッチを並べて用意しておくのもジャニターの役目でした。確かホテルの屋上にペントハウスがあって、そこにはKENT・LARKや、シーバスリーガルなどの嗜好品がケースに入って大量に保管されていたものでした。

季節業務

 当時、山王ホテルでは「ハワイアンナイト」という夏の夕方恒例のガーデンパーティーがありました。その時は豚一匹をまるごと、焼いた石やバナナの葉をかぶせてホテルの庭に埋めて蒸し焼きにするという、ハワイの伝統料理を作ることになっていました。そこでの私のミッションは、その蒸し焼き用のバナナの葉を調達するため、ホテルのトラックに同乗し、調布に住んでいるホテル関係者で日系人のAさんのお宅まで行き、庭のバナナの木から葉だけを刈り取ってトラックに積み込むことでした。

特殊業務

 アルバイト期間中に、一度だけ在日アメリカ軍相模原基地での仕事がありました。格納庫内の一区画を山王ホテルが倉庫スペースとして借りていて、そこに保管されている備品類を片付ける仕事でした。その日は、基地に出張する我々ジャニターの昼食用にと、ホテルがサンドイッチを作って持たせてくれました。そして赤坂から相模原基地へは、何と幌付きトラックの荷台に我々ジャニター数名を載せて首都高・東名高速道路を走ったものでした。それは軍用トラックではなかったはずで、そのときだけ特別な許可を受けていたのかは、今は知る由もありません。

今思えば

 山王ホテルはその後、南麻布に移転しています。昭和41年にビートルズが初来日した際、彼等が滞在していた当時の東京ヒルトンホテルの部屋から、丁度見下せる位置にあった旧山王ホテルの跡地には、今は44階建てのオフィスビルが立っています。

 山王ホテルでの2ヶ月のアルバイト代は、大学の後期分の授業料の足しにしました。毎月仕送りしてくれる母親の助けに少しはなったかなと、当時は思っていました。高校から実家を離れ、札幌での浪人生活そして上京してから2年。それまで自分のことだけを考え、誰からも指図されることなくやりたいように青春時代を送っていましたが、今振り返ると、この夏の頃を境に少しずつ自分の現在地が見えるようになり、周囲のことにも目を向けられるようになっていたのかもしれません。

 今思えば、当時故郷にいた中学時代からの友だちで、二つ年下のおかっぱ美少女S美ちゃんから最後の手紙が届く1年前の、不肖aoihitomi20歳の夏でした。