ああ、どうか電動キックボードであってくれ。

 

道路交通法がどうだからとかいう話じゃなくて、ユンギ自身が「電動キックボード」と言ってしまっているから。

 

謝罪の内容は真実であってほしい。

 

サドルが付いた形のキックボードって何?スクーターかキックボードかを区別するのってそんなに難しいの?

 

まぁ最終的に、私個人の論点は、ユンギが嘘をついたかついていないかそれだけです。

 

「スクーターに近いもの」をキックボードと言い間違えたとしたならば、それは限りなく嘘に近い言い間違えだと私は思ってしまうから。

 

百歩譲って、自分が使用したものがスクーターなのかキックボードなのか本当に認識していなかったとして、スクーターとも呼べるような乗り物を使用していたならば、飲酒運転が道路交通法違反に当たるとは「知らなかった」ことはなかろう。

 

飲酒運転はいただけない。

 

兵役中の飲酒運転はもっといただけない。

 

しかし嘘はさらにいただけない。

 

ユンギよ、なぜ。

 

***

 

「この世界の片隅に」。

 

実は見たことなくて、でも好きなブロガーさんがネタバレ記事を書いているのを見かけたので、記事を読む前に見たいと思って、英語吹き替え版を見ました。しょうがなく。(以下ネタバレあり)

 

英語だとやっぱりね、雰囲気が。。。特にこれは雰囲気が大切な映画だったように感じるので非常に残念な気もしますが、考えようによっては、この内容を日本人でありながら、終戦記念日付近にアメリカで、しかも英語で見るという経験そのものが感慨深いもののような気がしました。

 

主人公のすず、「平凡さ」がとても魅力的に描かれている女性ですが。夢見がちで常に穏やかな彼女が怒りを表すシーンというのが二つありますね。

 

一つは、初恋相手の同級生が嫁ぎ先に訪ねてきたとき。この同級生に迫られ、すずは「この瞬間を待っていた」と吐露しながら、でも夫への不義理は許されないと感じている、その葛藤の最中。かつて呉まで自分を呼び寄せた夫を憎むと同時に、彼への愛情を再認識するというシーン。

 

もう一つは、終戦を迎えるとき。最後の一人が死ぬまで戦うと言っていたのに、ここには5人も残っていて、2本の足と1本の腕を持て余す自分だってまだ生きているのになぜ降伏しなければならないのかと涙を流すシーン。こんなことなら、最後の最後までやらずに諦めるなら、今までの犠牲はなんだったのか、と嘆くすず。

 

この2つのシーン、何が印象的かって、穏やかな彼女が激しく取り乱すという点そのものも印象的なんですが、相反する心理に引き裂かれているという共通点が印象的です。夫への憎しみと愛情、終戦への怒りと安堵。(物語の中盤で右手を失う主人公ですが、このアイデンティティクライシスは割と静かに描かれています。)

 

「この世界の片隅に」というのは「この世界の片隅にいる私を探し出してくれてありがとう」という主人公の、夫に向けたセリフ(原文の英訳の和訳なので変かも汗)の一部分なわけですが、私はむしろ、この世界の片隅で平凡な幸せを願う主人公が、こうして世界の片隅で心を引き裂かれ、その結果として、世界の片隅に自分の幸せを見つけ、明るく生きていくことを自ら選ぶに至ったその様子にこそ、心を揺さぶられました。

 

***

 

翻って、剣道仲間がハワイに引っ越すということで、昨日短い時間ながらも夕飯を共にしたのですが、彼女は日本史が専門で、しかも第二次世界大戦の戦死者を研究対象にしています。

 

ハワイでの新しい仕事は、主にベトナム戦争で亡くなった米兵の研究のようですが、彼女の仕事内容を聞き、しかもそれが国防総省の管轄であると聞き、私は思わず、彼女の研究が「国にどういうメリットをもたらすのか」というような質問をしてしまったのです。

 

それには彼女も苦笑い。「まぁ経済的なメリットはないよね」と。

 

しかし、アメリカでは遺族からの圧力が強く、歴史的に戦死者を大切にしてきた文化がこの国にはある、それが日本とはちょっと違うよね、と言うのです。日本は戦死者を祀ると(被害を受けた)外国からの批判があるだけに難しい、日本に同じような仕事があれば日本兵とその遺族の研究を続けたかったのだけれど、と。

 

要するに「この世界の片隅に」というストーリーは、あの時代を生きた人の数だけ、何通りもあって、彼女の仕事はまさにそれらを掘り起こしていく仕事であり、私は8月6日に、アメリカの地で、剣道を通して知り合った、日本史専門家のアメリカ人の友人と、テーブルを挟んでメキシコ料理を食べながら、そんな話を聞いている、というその状況を、やはり感慨深く思ったわけです。

 

***

 

同じ8月6日、ユンギは果たしてどこで誰とどんな話をして帰宅したのだろう。

 

たったの500m。

 

簡単に歩ける距離。

 

被爆者が溶ける体を引き摺って、泣き喚く赤子を抱えて、必死な思いで水を求めて歩こうとしても歩けなかったかもしれない距離と考えれば途轍もなく長い距離だけれど。

 

ユンギの未来がこれで大きく変わってしまうのであれば、やはり途轍もなく長い距離だったということになるのかもしれないけれど。

 

思わず乗っちゃった。

 

世界の片隅で、そんなことはきっといくらだって誰にでもある。

 

兵役中だからって、勤務時間でもない時に四六時中、気を張るというのも無理だとは思う。

 

でも、キックボードというのが嘘だったら、私は世界の片隅で泣いてしまうかもしれない。

 

ユンギのことを嫌いになるからじゃなくて、きっとそれでもユンギのことが好きだから。

 

 

 

夜明けに当たる あの月の光

相変わらず あの時と同じだな

俺の人生はたくさんのことが変わったけどさ

あの月の光は 相変わらず あの時のままだと