お立ち寄りいただきありがとうございます。

 

最近の記事だけでなく過去記事へのいいね、コメント、メッセージ、ありがとうございます。ブログなんてそんなものなのかもしれませんが、ここでは随時、数年前まで遡って記事を見ていただくことが多いようのなので、本当にありがたいと思っています。私自身が書いたことを忘れてしまったような記事も、誰かの目に留まって楽しんでいただけているというのは、本当に書いた甲斐があるというか、大袈裟に言うと、ナムジュンがよく言ってる所の「自分は死んでも作品は生き残る」というフレーズを思い出します。

 

で、また懲りずにTMIなんですが、この1年は私にとって成長を意識する一年だったんです。30代でこんな風に感じられるのは今までの成長が遅くて伸び代があったからなのか、あるいは新しい環境に身を置いたせいなのかはわかりませんが。

 

まずは医者として気づいたこと。

 

前も言ったかもしれませんが、コミュニケーション能力に関しては言えば、総じて米国人医師の方が日本人医師より高いと感じます。それはアメリカ教育においてプレゼン能力が重視されているせいもあると思うのですが、そもそもなぜそんなところに教育の力点が置かれているのか。それは、この国の多様性によるところだと思います。自分が考えていることを、わかりやすく、面白く、簡潔に伝える、そういった能力がなければ多様性の壁を乗り越えることができないわけですよね。

 

だから医者になっても、もちろんコミュニケーション能力が高い。決して感情的にはならず、論理的に状況を説明し、論理が通じない患者さんに対しては、瞬時に別のアプローチを探せる。ちょっとした交渉術のようにもなる部分があるように感じます。歴史上、黒人が医療研究の実験台になってきた過去があるせいで、黒人の医療への不信感というのは今も根強いアメリカですが、そのせいで、患者さんから治療方針のイチャモンをつけられることが多いです。例えば、この痛み止めは効かないから内服したくないだの、静脈麻薬を特定の頻度で投与してほしいだの、主張と注文が多いです。そういう時に自分の正義を振りかざしても関係性が拗れるだけなんですよね。こっちもそれなりに譲歩して(でも相手からコントロールされない範囲で)医療者としての良識を保ちつつ治療に当たらなければならない。これってすごいストレスで。

 

日本だと、大体の患者さんが、先生がおっしゃるならその通りにって感じですよね。カロナールは効かないので飲みません、麻薬を処方してくれないと、とかナンセンスを言う患者さんはいない。まずはカロナールを内服した上で、ちょっと効かないみたいなんですけど、、、って感じ。それに慣れてると、自分の正義を振りかざしがちになるんですよ。この場合正義というのは主にエビデンスに基づいた治療ガイドラインなんで、振りかざすのは当然というかそれが医者の仕事なんですが、これを繰り返していると、エビデンスより価値観が重要な場面でもどことなく自分の正義を押し通そうとする医者になってしまう。

 

どういうことかというと、例えばもう治らないとわかった時、最期の時というのは医者の喋り方一つで患者さんの方針は大きく変わる一面があると思うのですが、そういう時に自分が考える「正しさ」に誘導してしまうんですよね。これが大切な場合はもちろんあって。医者は患者さんと共に道に迷うわけにはいかないので、ある程度誘導的に話す術も持ち合わせるべきだと私は思うわけですが、それでも理想は、落とし所を見据えつつもやはり忍耐強く相手の迷いに付き合うって所だと思うんです。

 

この忍耐強さ、英語では「pateince」と言いますが、患者を意味する「patient」と同じ言葉でありながら、米国では忍耐強いのは患者さんだけでなく、医療者もそうであることは間違いないです。むしろそうじゃなければ、きっと訴訟沙汰になってしまう。

 

日本は患者の権利意識が低いので、例えば太った患者さんが医療者の前で申し訳なさそうに振る舞うことって多いと思うんです。ベッド移乗の時も「私、太ってるんで、自分で移動します」とか、採血がうまくいかなければ「血管が取りづらくてごめんなさい」とか。そういう発言を多く聞いてきた私は、その度に謝る必要はないのに、と思っていました。それはまさしく我が母が肥満傾向にあるからというのもあるかもしれませんが。

 

でもね、アメリカに来て、肥満のせいで車椅子ベッド生活になってしまった患者さんが入院してきて、(怠癖も手伝って)トイレにも行かずにベッドで糞尿垂れ流し状態になって尿路感染症を起こした時には、これはなんなんだって正直思いましたよ。看護師が5人がかりで腹部の脂肪を掻き分けて尿道カテーテルによる採尿を試みて失敗した時に、自分がトライすることになって、「彼氏と電話中だから3分待ってほしい」と言われた時はイライラしました。その上、今までのベッド生活のせいで股関節が硬くなってしまい開脚できないのだと理解した時も、なんでこんななるまで太り続けたんだ、この人は全く疑問を抱かずに生活してきたのか、これはクレイジーだと思いました。1回目のトライが上手くいかなくて患者さんが怒り出した時も、「あなたが検査を拒否するのは自由です。でも、これは全てあなたのためにやっていることですから」と思わず強い口調になりました。

 

でもその時に非難されたのは私の方でした。そういう喋り方はやめてほしい、とその患者さんに言われたのです。私は常にあなたをリスペクトした話し方をしているのに、そんな言い方はないんじゃないかと言われました。ハッとしましたよ。患者さんが検査に協力的であることを当然だと思うのは間違っているんだと。

 

Please be patient with us(もう少しだけ私たちに時間をください、辛抱してください)というのは私が今年度後半からよく使うようになった表現なのですが、アメリカでは患者(patient)に忍耐強さ(patience)を当然のごとく求めることは許されないのです。

 

上記の患者さんの採尿は結局うまくいきませんでした。何せ全てをブラインドでやるしかないので。汗をぬぐいながら研修医室に戻った時の先輩とのやりとりを正直に書くと

先輩「(検体を)取れたか?」

わたし「尿道以外の全ての穴には当たったんですけどね。残念ながら尿道は逃しました」

先輩「(笑)そうか、あの体格じゃしょうがねえな。俺も聞きたいことあるんだけど、あの病室(糞尿で)臭いから行きたくないんだよな。電話したら出てくれるかな」(当院では患者さんの部屋の備え付けの電話に研修医室からつながります)

わたし「トイレもめんどくさがって糞尿垂れ流しの人間が我々の電話なんかに出てくれますかね」

先輩「(苦笑)それは鋭い指摘だな」

 

といいつつ、電話口の先輩の口調は非常に温厚なんですよね。私と同じぐらい、あるいは私以上にイライラしていてもコミュニケーションの技法を心得ている。プロフェッショナルなんです。

 

そしてもう一つ気づいたのは、多様性のせいで秩序に欠けるアメリカを成り立たせているカラクリとして重要なのは、柔軟なコミュニケーションアート以外に「厳格なルール」だということです。アメリカ人の方が感情的でルーズなイメージかもしれませんが、医療現場の現実は真反対ですね。同僚、上司、部下、患者からの評価が常に付きまとい、訴訟文化があるアメリカの現場で感情的になるのは御法度です。多様性と無秩序の中でシステムを成り立たせるには厳格なルールに皆が従う必要があるために、アメリカの医療者は常に論理を優先し、ルールに忠実で、融通が利きません。

 

一方の日本は、もともと暗黙の了解のうちに成り立っている秩序があるので、厳格なルールがありません。場合によってはルールを逸脱して融通を利かせることが求められるのが日本の医療現場だと思います。融通がきかない医療スタッフは、「あいつは使えねえ」ってことになるわけですね。

 

どちらがいいのか、今の私にはわかりません。どちらもそれなりの長所と短所があるのでしょう。でも一つ言えるのは、日本のような社会では自分でも気付かぬうちに「相手への期待」が大きくなるということです。患者さんへの期待、同僚への期待、「こうしてもらえるのは当たり前」という感覚。それが根こそぎ否定されるのがアメリカの医療現場です。

 

ここ数年、プライベートでも期待を裏切られることが多い私ですが、とにかくこの数年繰り返し学んでいるのは、期待を手放すことの重要性のように感じます。それは自分への期待を手放すことも含むわけですが、期待を全て失ってしまったら生きている目的を見失ってしまうのが難しいところで。ポジティブであるというのは、ある程度、自分や他者、未来への期待・希望を持ち続けることだと思うのですが、その期待が満たされない場合にも折れない強さを持つことがレジリアンスであり「ポジティブである」ということなんですよね。でも折れないためには、最初から期待を手放す方が手取り早い。ただ今の私は、それらを完全に手放したとき、死にたくならずにいられるのか、わからない。期待を裏切られて死にたくなった時に、救ってくれるのは新たな期待なのであって。生きている限りは何らかの希望を頼りにするしかないような気もする。

 

大袈裟な話になるけれど、この「希望」がBTSだという方も、これを読んでくださっている方の中にはいらっしゃるのでしょう。私にもそういう時期があった気がします。彼らの存在を知り、彼らの関係性を知り、彼らのファンを知り、私が人間の絆に期待する全てがそこにはあるような気がして。人生、捨てたもんじゃない、と彼らを見て思った時もありました。これからもそう思うことはあるんだろうけれど。

 

堂々巡りの中で微かな成長に生きがいを見出す今日この頃です。

 

 

 

 

最後までお付き合いくださってありがとうございました♡