いただいた一つ一つのメッセージに返信していたのですが、共通のテーマを見つけたので、その点についてはここで書きたいと思います。

 

それはすなわち「信じるということ」についてです。

 

メッセージを読みながら、この根本が私は少し特殊なのかもしれないと感じています。

 

というのも、私が信じる対象は常に自分だからです。

 

悲しいと言われるかもしれませんが、私は30年以上生きてきて自分以外の人間を信じたことはないように思います。

 

そりゃ他者に対する期待はありますよ。それは最近のユンギについての投稿を見ていただければ明らかで、私の中には「こういうユンギでいてほしい」という期待や願望があります。それにそぐわない彼の姿を見てがっかりして記事を書く。そんなことを繰り返しているうちにファンをやめるのか。それはわかりません。そういう日も来るかもしれない。でも今のところは「がっかり」と「期待以上」を繰り返しながら、やっぱり好きだなあと思っています。

 

このスタンスは基本的に、家族、友人、恋人、職場の人間に対しても同じことで。

 

この人だったらこうしてくれるんじゃないか。この人にはこうであってほしい。そういう期待を抱かずに生きていくことというのは、出家して俗世と離れたお坊さんにでもならない限り難しいのではないでしょうか。

 

でもそういう期待を抱くことと、「信じること」は私の中では同義ではありません。

 

期待は必ずと言って良いほど裏切られますよね(相手にそのつもりがあったかは別としてこちらが主観的に裏切りと感じれば無理せずに裏切りと呼んでもいいのではないかと思います)。それは小さな裏切りの積み重ねの場合もあれば、一瞬で関係が崩れて修正不可能になる大きな裏切りの場合もある。

 

私は全ての人間関係に、この前提を当てはめた上で向き合っているように思います。その意味では最悪のペシミストであり、一部の人間関係が上手くいかないのはそのせいでもあろうと思っています。だからこのアプローチが良いと主張したくてこれを書いているわけではありません。

 

ただ、私の考え方がメッセージを下さった多くの方々より非常にシンプルであることは間違いないのではないかと思います。

 

相手に期待をしてしまう自分のことは受け入れるけれど、期待を裏切られた場合に相手を受け入れられるかは、その時の自然の流れに任せる。

 

これが私の基本的なスタンスです。

 

だから、今まで容赦なく切り捨ててきた人間関係もありました。特に恋愛関係は、生理的に無理になって終わらせてしまったものばかりでした。他の女性と関係を持たれるというのは論外ですが、それ以外にも相手の発言や行動から見え隠れする価値観が一旦「違う」と思うと受け入れられなくなることが多かったように思います。

 

そしてそれは、もしかすると、自分自身を信じていることの裏返しなのではないかと、いつの頃からか思うようになりました。

 

「私はこれを正しいと思う」

「私は人間としてこれが大切だと思う」

「私自身はこうありたい」

 

この人を受け入れようとすると、それを曲げなければならない。それは私にはできない。

 

この年になっていろんな人の話を聞くと、みんな適当なところで妥協してるんだな、と思います。逆に私のような生き方はとても孤独だと思います。多くの人間は、納得できないことでも受け入れることで曲がりなりにも孤独を回避しようとしている。うまく誤魔化して生きている。

 

だって、自分を信じると言っても、自分に裏切られることだってあるからです。

 

唯一の指針の自分がブレることはどうしたってある。そういう時の虚しさと言ったら、死にたくなるほどですよ。

 

それでも、自分は自分から逃れられないから自分のことは受け入れて生きていくしかない。

 

信じるしかない。

 

どんなに嫌いになっても信じるしかない。

 

私が自分を信じているのは、このやむを得ない事情によるものだろうと理解しています。

 

でも逆に言えば、「違うな」と思ってもなお受け入れなければならない相手なんて自分だけなのではないかと私は思います。

 

そりゃどんな相手にも情はありますよ。期待を抱き続けてきた相手なんですから。

 

でもそんな情はいつかドライフラワーになります。そしていつかは新しい人から新しい花をもらう。それもまたドライフラワーになるのかもしれないけれど。

 

その循環の中で集めたドライフラワーを大切にして生きていく。

 

人生そんな感じでいいんじゃないですかね。自分の中で枯れていく花を無理に生き返らせる必要はない。ドライフラワーになっていくものはそれとして受け入れればいいんじゃないかと私なんかは思います。

 

それでも自分を信じてさえいれば、また別の誰かに期待することはできるはずです。あるいは、時が経てば、同じ誰かにまた期待を抱くこともできるかもしれない。

 

 

何が真実であれ、テテが「自分に正直な人間である」という点に関しては何も変わらない。

 

彼はファンより何より自分を信じている。

 

期待を裏切られたとしても、その姿から学ぶべきことはあるんじゃないかと思います。

 

いろんなメッセージを読ませていただいて、LGBT匂わせ商法の罪深さを実感しながら、私は今そんなことを感じています。

 

PS  本件が事実だと明らかになった時に、今までと同じように彼のファンでいられるかは私にはわかりません。前記事に貼り付けた「推し活の在り方」では多くの綺麗事も書きましたが、その時になってしまえば、私の中では、彼との関係は上記の「切り捨てる関係」に分類されるのかもしれない。そのぐらい、私は彼というより、マーケティングのためにLGBTを利用することに強い嫌悪感を抱きます(勘違いや誤解だと言われても私がそう感じるのだからしょうがない)。「受け入れなきゃ」というファンの心意気には感心しますが、そうはなれないという方に、私もそうだよ、と伝えたいだけの追記です。

 

PPS ただ本件が事実であると確信しているわけではないです。事実だったら私はこう思うってだけの話で。詳細を調べていないのは、正直どうでもいいからです。私は「テテがファンを失望させるはずがない」などという発想がまるでないので、事実だとしても驚きはしないですが