最近、投稿内容が激重なので、少し軽い話から始めます。

 

今、ユン大統領が122人のビジネス関係者を引き連れて米国訪問中だということを昨日知った私です。医療分野での市場拡大を目指した訪問だとか↓

 

 

私がこのたび参加した学会は、製薬会社もたくさんブースを出しているような世界最大規模のもので、幕張メッセみたいな会場風景を想像していただければと思うんですが、とあるブースに並んでいたら後ろから韓国語が聞こえてきたんです。若い男性2人組で、それはもうものすごいスピードの掛け合いだったのですが、列の先頭まで距離があったので思い切って話しかけてみたんです。

 

すると2人ともナムジュンというかBLACKPINK ばりの切り替えで。失礼ながらカタコトの英語を期待していた私としては仰天したわけです。1人は米国国内の名門薬学部出身で、もう1人はソウル大出身(別れ際に差し出された名刺をもとに空港で検索w)だったんで当然といえば当然なんですが。社員6人程度の小さいベンチャー企業なのに米国にも支社を置いていて、不眠関連のソフトウェア開発が評価され、この度上記122人の中に当該2人が選出されたようでした。

 

男性だったというのもありますが、彼らがメンションしたKPOPアイドルは当然のごとくBTSではなくBLACKPINKでした。私の経歴を聞いてジェニーとの共通点を指摘する文脈だったので、しょうがないといえばしょうがないんですが、韓国人に会えば必ず口にしている「私、BTSのファンなんです」という言葉を私はなぜかその時飲み込んでしまって。ユンギだってジミンだってちょうど今、アメリカにいるのに。

 

どういう心境だったのか、今でもうまく解説できないんですが、彼らから「BTSの成功をものともしない雰囲気」を感じたせいかもしれません。ベストまで着込んだ3点セットスーツにピッカピカの革靴。胸には韓国国旗と星条旗が交差したバッジが光り、繰り返される「韓国代表」というフレーズ。羽振りの良い製薬会社社員特有のギラつき具合。少しくたびれたビジネスカジュアルで会場に来ている多くの医者とは雰囲気が全然違って。

 

経歴的に、彼らはBTSと同世代だと思うのですが、同じ「韓国代表」でも、BTSがかつて疑問を唱えたあの社会構造の頂点に生まれたであろう彼らの雰囲気は新鮮だったというか、ベプセの歌詞じゃないですが、既得権益の上に生きるシルバースプーンからすれば、BTSはあまり眼中に入らない存在なのかもしれないというようなこともチラッと感じました。

 

研究内容を聞かれて、緩和領域の中でも例のニッチな分野への関心について話すと、薬学部の方はサイコオンコロジーを引き合いに出して興味を示してきたんですが、ソウル大はどこ吹く風という感じで、勝ち組オーラが半端なかったです。(もちろん文句なしに愛想はいいんだけど、そのあたりも含めて、東大京大より慶應ハーバードっぽいカラーと言って正確に伝わるかわかりませんが、個人的に国立臭より私立臭を感じました笑)

 

なぜこんな話をするかというと、こういう勝ち組の人たちって、不治の病を告知されたらどう変化するんだろう、というのが長年の私の関心事項だからです。

 

持っているものが多ければ多いほど手放すのって大変だし、それらを自分のものだと信じ込んでいる時間が長ければ長いほど順応に時間がかかる。

 

「私たちが生きている今日という日は借り物だ」

 

一言一句同じではありませんが、これは(フォロワーさんにご紹介いただいた)「美丘」という石田衣良の作品のヒロインの言葉です。彼女はクロイツフェルトヤコブ病の大学生という設定なのですが、その生き方には賛否両論あると思うので、帰りの飛行機で読んだ内容を少しだけ紹介します(以下ネタバレあり)。

 

幼少期の事故に伴う移植術で感染し、病気の発症を恐れながら生きてきた彼女のモットーは「遠慮せずに自分に正直に今を生きる」です。例の「リョウくん」の亜型のような主人公が彼女に惹かれるのも、この「今を生きている感じ」や「向こう見ずな言動」のためであり、そこには性的に奔放な様子もついて回ります。

 

そもそも本作は「若年性の認知機能低下でアイデンティティーを失うことになる自由奔放なヒロインが、それでも今を懸命に生きるストーリー」というお題が先行しているように感じます(純文学作家が「描きたい心理」を優先させるの対して、大衆文学作家が「描きたい設定」を優先させるのは当然だと思いますが、本作ではそのせいで心理描写の方に無理がある場面があるように私は感じました)。この設定に肉付けしていく上で「今を懸命に生きる」イコール「私らしさを最優先する」イコール「周囲に与える影響は鑑みずに欲望のままに衝動的に生きる」という作者の価値観が入ってくる。

 

その形の果てとして「私が私でなくなったら殺してほしい」という恋人への要求につながっていきます。(そしてこれを「約束」してしまった主人公の行動が未来形で描かれるという腑に落ちないラスト。)

 

病によるアイデンティティーの喪失とそれに伴う苦痛を取り除くための安楽死の是非というのは、いうまでもなく非常にデリケートな問題で、お涙頂戴の感動ポルノに利用すべき題材ではないと私は思います。

 

大体、病気を題材にする小説を書く場合は、当該疾患を抱える患者さんへの最低限の敬意としてしっかりリサーチすべきだというのが私の見解ですが、一方では、文学にはメタファーという概念が存在するので、例えば「君の膵臓を食べたい」に登場する「ありえない膵疾患」についてとやかく言うつもりはありません。「描きたいこと」が先にあって、その手段として、ご都合主義的に病気や死を利用するのは「アリ」だと思います。

 

というのは申し上げた上で、「美丘」は題材の調理がとてつもなく雑で、私がヤコブ患者あるいは安楽死を選択した患者の遺族だったら許せないかもしれないと思いました。

 

ただタチが悪いことに、(設定ありきなだけに)重要な論点を割り出して、それに対する「ある程度の答え」は要領よく提示してくる石田衣良。実際、本作はセカチューなどの白血病・癌ものとは論点が少し違う。石田氏が「命の大切さ」以上に「アイデンティティー」の問題をより色濃く提示しようとしているからです。

 

例えば「今を懸命に生きる」の上記解釈について皆さんはどうお考えになるでしょうか。

 

男性作家が描く女性は大きく分けると2パターンしかなさそうだということを以前も書きましたが、美丘は「ノルウェイの森」でいうところのミドリです。一方、主人公と美丘が傷つけることになる元カノは「マチネの終わりに」でいうところのヨウコです。後者は「プライドを捨ててまで誰かを愛することはできない冷たい女」として男性作家には表現されますが、私自身がこのタイプなので声を大にしてもう一度言いたい。

 

捨てたくないのは「プライド」じゃなくて、自分の信念なわけ。自分が正しいと信じている価値観。道徳観。倫理観。そういう自分の「信仰」を捨ててまで男に身を委ねるようなことはしないってことなんだよ。「そんな風だから情熱的な恋愛や身が焼けるようなセックスができないんだ」と言われても「え?」って感じです。「私自身の信仰」の方が「恋愛」や「欲」よりも大切なんで。

 

そもそも恋愛至上主義のロマンチストが作家になるというセレクションバイアスがかかっているからしょうがないと言えども、日本の中年男性作家は「欲望に忠実な道徳観のない女性」を美化しすぎる傾向がありますね。そしてそのせいで「私らしさを最優先する=理性を小馬鹿にするキャラクター」という設定に走ってしまっているのだとすれば、ある意味では悍ましい女性蔑視のようにも感じられますが、逆に、理性を優先させるのもまた「私らしさ」の表れだと彼らは認めているからこの2系統の女性を繰り返し描くのかもしれません。

 

いずれにせよ、発症後の美丘は「余計なものが削ぎ落とされた自分らしさ」が最終的にどういうものであるかを確かめたいという結論に達します。ということならば、ますます「最後に残る私らしさ」と「自分が消える時」の境目が重要な気もしますが、残念ながらその境で揺れ動く様子がほとんど描かれない。

 

身体的に「自由奔放」の継続が難しくなって入院を決めるクダリがあって、そのうち主人公のことも認識できない時が出現し、最終的に「やくそく」という言葉を口にするという一連の流れがなんとなく描かれるだけで、それを観察する主人公の葛藤もいっぺん通り。「美丘でなくなる」ということが彼女自身にとって、あるいは恋人である主人公にとってどういうことなのか、いまいち伝わってこない。

 

自分でトイレに行けなくなること?大切な人を忘れてしまうこと?歩けなくなること?手が握り返せなくなること?コミュニケーションを図れなくなること?セックスで愛を伝えることができなくなること?「約束」という言葉さえ口にできなくなること?

 

翻って、私がこの半年間で見てきた患者さん(男女両方含む)の声はどうか。

 

「自分らしさ」のカウントダウンが始まったことを自覚する100人以上の患者さんに、自由に記載してもらったところ、「大切に思うこと」の項目に「セックス」と書いた人はたった1人でした。20代に限った統計ではないから何とも言えないけれど、「欲望のままに生きる」ことを最優先にするような解答は私が知る限りでは滅多に見ないです。

 

それでは皆、何を大切にするのか。

 

答えは「日常」です。

 

「今を生きる」と決めた人間が、周囲のことを鑑みずに「特別」を求めて暴走するのって意外と現実では見ない展開だと思います。なぜなら、病気をきっかけに「日常」こそが「特別」になるからです。「欲望のままに」「遠慮せずに」「自分らしく」なんて意識しなくても、これからやってくる喪失を意識するだけで「欲望を抑えて遠慮しながら生きてきた窮屈な日常」が「自分らしく」思えてくるものなんだと思います。

 

そうではない人もいるかもしれない。今まで子育てばかりで自分のしたいことをしてこなかったから、死ぬ前に一回ぐらい夫に内緒で娼夫を買って思いっきりセックスをしたいなんていう人もいるかもしれない。「韓国代表」なんていうどうでも良い地位は捨てて、彼女と一日中セックスをして過ごしたいという人もいるかもしれない。

 

でも大半の人は、きっと「不満ばかりの虚しい子育て生活」に輝きを見つけ、「韓国代表でいることの無価値性」に気づきながらもきっと仕事は捨てない。それが最初からそこにあった「自分らしさ」だと気づくから。

 

「人間は探しているものしか見つけない。退屈を探している人間は退屈を。魅力を探している人間は魅力を」というのは「娼年」に出てくる石田氏の言葉ですが、人間は死を意識しなくても無意識に自分らしさを追求しているものなのだろうと思います。

 

石田氏が意図した意味とは違うだろうけれど、退屈を探している人間は「退屈が心地よいから」退屈を探しているんだと私は思います。それは単調で起伏のない日常への愛着であり、私にはない感覚だけれど、例えばエドを見ていると「そういう人もいるんだな」となんとなく理解できます。彼はきっと、死ぬことがわかっても何も変わらない。

 

でもだからこそ、そんな「自分らしさ」を失う前に、全てを終わらせてしまいたいという心情は理解するに余りある。私が大好きな「アルジャーノンに花束を」という作品も(以下ネタバレあり)、最後にわかるこのタイトルの本当の意味が、知能を失ってもそこに残る「その人らしさ」を表現しているから悲しくても強く感動するわけで。

 

自分が何者でもなくなる前に死にたいという欲求。

 

それが現在のところ、なかなか叶えられないからこんな都合の良い解釈を思いつくのかもしれませんが、患者さんが自分を失う恐怖に耐えてそれでも生きる姿というのは往々にして周りの人に勇気を与えるようです。多くの介護者は、「かつての彼・彼女」の喪失に苦しみ悲しみながらも、「たまに現れるいつもの彼・彼女」に胸を打たれる。そしてそんな「一瞬だけ取り戻せる自分さえ失ってもなお生き続けた抜け殻」を最後まで見届けることで、介護者は「精神的な死」の先にある「生物学的な死」を自然に受け入れる。少なくとも私にはそんな風に見えます。

 

尊厳を失っても生きる意味はあるのか。

 

意味の有無に関係なく、「自分が自分のままでいる間」に人間には「終わり」を選択する権利があるのではないか。

 

本作の石田氏は明確な答えを回避し「未来形描写」で逃げ切っていますが、その問題定義には傾聴の価値が十分にあるでしょう。

 

 

 

僕らはゆっくりと忘れていく とても小さく

少しずつ崩れる塔を眺めるように

僕らはゆっくりと眠っていく

ゆっくりと眠っていく

 

貴方はゆっくりと変わっていく

とても小さく あの木の真ん中に育っていく木陰のように

貴方はゆっくりと走っていく

長い迷路の先も恐れないままで

確かに迷いながら

 

 

最後までお付き合いくださってありがとうございました♡