お立ち寄りいただきありがとうございます。

 

これどうでもいい投稿かもしれませんが、今までもどうでもいいことを独りよがりに書いてきたので遠慮せずに書きます。

 

お返事が滞ったままで、かつRoad to D-Dayもまだ見てなくて、この間何をしていたかという話なんですが。今、実は学会中で。ここで具体的な都市名を挙げてしまうと身元が破れる危険があるので、一応濁しますが、実は7年前の4月も同じ都市に滞在していた私としては、少し感慨深い旅なのです。

 

ただホテルに着き次第、予約の形跡がないだの何だの言われて受付で半泣き状態になっていたところ、人身売買通報を促すビラが置かれていることに気づいてハッとして。さっき無事に部屋に入り、移動中に読み始めた本を読み終えたのですが、、、

 

石田衣良さんの娼年シリーズ。

 

実は、最近書いた闇シリーズの記事へのコメントかメッセージかで確か「大人になって売春に手を染めることの是非」について触れたものがあって(うろ覚えでごめんなさい。お返事を書く時にしっかり確認します!)それがずっと気になっていたんです。

 

要するに、私としては、成人の売春行為についても、何らかの「被害」の結果行われるものなのかなと勝手に考えていたわけです。経済的な事情とか、生育環境とか、それこそ児童虐待とか、そういう背景なしにその職業をあえて選ぶという発想があまりなくて。でも考えてみれば、例の事務所に息子たちを売った親も、必ずしも貧困に苦しんでいたわけではなさそうだし、何なら有名になるという見返りさえなくても、すすんで売春を行う人もいるわけですよね。ポルノスターになりたいという人だっている。

 

それのどこが道徳に反しているのか。

 

あらゆる大量消費が許されているこの世界でなぜ「性の大量消費」だけダメなのか。「公序良俗」って結局何なの?という疑問が湧いてきたんです。

 

時同じくして、アマゾンのフィードに石田衣良の作品が出現し始めました。中学生ぐらいの頃に良く触れていた作家なんですが、最近すっかり忘れていたなぁと思っていたところ、娼年シリーズに出会ったわけです。(以下、ネタバレあり)

 

これ、「売春を全肯定する話」です。まさに今の私が求めていたような視点を提示してくれる小説。

 

売春とセックスがこれ以上ないほどに美化されています。石田氏は単純にロマンチストなんでしょうね。本作がコメディーじゃないのは何よりも確かなんですが、性行為の美化具合が凄くて私は最近読んだ本の中で一番笑いました。誤解がないように書くと、決して馬鹿にしているわけじゃなくて、「こんな行為にこんな比喩を当てがえるなんてすげぇな」という感嘆が漏れる描写が多いということです。

 

しかも第一巻が書かれたのが20年近く前?で5年前には全三巻が完成している。

 

今になって時代がようやく石田衣良に追いついてきたということなのか、単に私がこの分野に興味を持つのが遅かったのか、売春にLGBTにSMにHIVと盛りだくさんで、テーマは「普通とは」「多様性を認めるとは」「やりがいのある仕事とは」。

 

2020年代に読むから、「あーこれね、これは確かにこう描きたいよね、うん、説教臭くなってもここは主張しないといけないとこだもんね」なんてニヤニヤ相槌を打ちながら読みましたが、初版を読まれた方にはセンセーショナルな内容だったのではないでしょうか。

 

「欲望バンザイ」「日本が廃れてきているのはセックスが足りないからだ」という基本理念に若干の反発心を抱かされ、石田氏は多様性を唱えながらアセクシャルの存在を知らないのか?!と思っていると、そこもちゃんと押さえてきます。(当事者としては微妙な描き方だなと思いましたが、まあ触れてくれただけでOKとしよう。っていつもながら偉そうですみません汗)

 

第三巻にもなってくると、もはや「いろんな欲望のあり方の症例報告」と「性に関する石田語録」が交互に編み込まれたような内容になっている。ここではもはや主人公が7年の娼夫キャリアを持つ「プロ」に成長しきっているので、歯切れの良い性語録もサクサク読めるのですが、その分葛藤が薄くて読み応えはないです。(そして「7年」という偶然が何とも言えない。。。私が同じ土地に戻ってくるまでにかかった7年の間に、彼は立派なプロになって生涯の伴侶まで見つけました笑)

 

その点、プロになり切る前の第一巻は面白かったです。孤独を愛する冷めた主人公が割と早急に「女性の欲望の不思議」にハマっていくのが若干解せない雰囲気はありますが、わかりやすい成長物語になっています。

 

第二巻以降の魅力が失せるのは、この主人公に「孤独の影」がなくなるからだと思うのですが、第一巻は主人公の根暗ぶりが光っていて、プラトンまで出てきます。登場人物の言葉では「あの時代はホモセクシャル以外本当の恋愛じゃなかった」とか。この件については英Wikiで確認したのですが、確かに少年と「指導者的立場の年上男性」との間に性的な関係があるのは古代ギリシャでは普通のことだったみたいですね。逆に同じような年齢の青年同士が性的な関係を結ぶのは禁忌だったようで。

 

(ちなみに「プラトニックラブ」というのも、別にプラトンが性的に潔白だったことに由来するわけではなく、彼の主張の中に精神的繋がりの方が肉体的繋がりより重要だという点があっただけのことらしいですよね。)

 

直接的にプラトンに言及していない箇所でもイデア論的考え方が何度か登場するので、石田氏はプラトンが好きなんでしょうね。

 

いずれにしても、全てに投げやりだった20歳の主人公が、体を売る仕事にハマることで人生に初めて生きがいを見出して「娼夫が天職だ」と言っちゃうぐらいの小説なので、何が間違っていて何が正しいかなんてわからなくなります(「僕は娼夫だ」と堂々と自己紹介する場面も何度かあって笑うしかない)。彼がスカウトする性同一性障害の子も、その職場に「居場所」を見つけるのですが、「僕をありのままの姿で求めてもらえるのは売春の世界だけ」とまで言われてしまうとねぇ。。。

 

しかも近親相姦ではないんですが、主人公が、既に何度かセックスをしている女の子に「君のお母さんと寝たいんだけど仲を取り持ってくれないかな」とカフェでざっくり聞いた上で、彼女の目前でお母さんと寝ちゃったり、そのお母さんの親友とも寝ちゃう感じの(退っ引きならぬ事情があるにはあるんですが)奇想天外ワールドがそれなりに違和感なく成り立っているのも、はちゃめちゃです。

 

こうやって表面的に書くと、たまにポルノとも評されてしまうハルキワールドを思い出す方がいらっしゃるかもしれませんが、全然違います。もちろんジャンルや文体、物語の主旨・骨組みが似ても似つかないというのは多分にあるんですが、比喩やユーモアの感性が全然違うというのも大きいと思います(ちなみにアメリカのおしゃれ都市で読むならハルキの方が圧倒的に違和感がないです。レストランで待っている間とかも、ハルキワールドに没頭している時にウェイターの英語が突然ふり注いでくるのは全く問題ないんですが、英語を浴びせられると途端に石田語録が安っぽくなるのが不思議!)

 

でも良くも悪くも、石田ファンタジーの方が、娼夫の目を通してセックスの概念をあっさり覆してくる感じがあります。セックスが仕事だという設定が逆にいやらしさを排除するのかもしれません。

 

一応、私のような道徳潔癖?の女性キャラクターも登場するんですが、彼女でさえ未成年売春を摘発するような行動に出ながら、簡単に丸め込まれて違法業務に加担しちゃうぐらいご都合主義な小説にもかかわらず(マネーロンダリングなんて言葉が出てくるぐらいで暴力団と繋がっている気配さえない)、確かに「説得力がある売春チーム」が描かれています。

 

正直、主人公のような娼夫がいるなら私も抱かれたいぐらいですが、興味深かったのは、石田氏の30代40代の女性の描写です。この小説に出てくる大半の客が私とそう変わらない年齢なんですが、正直、喋り方とか主人公との接し方に関しては違和感もありました。(20歳の男の子とセックスするとして、私は絶対にこういうことは言わないだろうなぁって思ったり。)

 

でも本作では、この30代から40代の女性たちが「なぜ買春に走るか」という背景についてもそれなりに描かれていて、事情を知ると彼女たちが愛おしく魅力的に見えてくるのが不思議なんですよ。そう、この「不思議」という言葉が本作では頻出なんですが、石田氏が「女性という生き物」に不思議を感じ、それ故に女性を深く愛しているというのはよーくわかりました。

 

男性作家が無意識的に女性を性の吐口として見ている場合って、性行為の描写とかで何となくそれが分かる気がするんですが、この小説のすごいところはそういう下劣さがないところだと思います(逆にそこを安っぽく感じる男性読者もいるに違いないけれど)。石田氏の女性への視線には常に包容力を感じるって言ったら変なんですが、とにかく「誰をも批判しない姿勢」がシリーズ全編を通して貫かれていて、同じ人体を対象にする職に就くものとして学ぶことが多くありました。

 

(児童売春は本人の判断能力の問題から論外として)成人の売春に関してはこの小説を読んだらそう簡単に否定的な意見は言えなくなってしまう気がします。体を重ねることでしか得られない心の交流を「被害者がいない犯罪」と石田氏は表現していましたが、そう書かれると、なるほどねぇと言わざるを得ないです。

 

でもその根源にはやっぱり「買う側も売る側も相手を単なる欲望の吐口として見ない」という石田ワールドの大前提がある。現実世界ではこれが成り立たないから人権問題になるんだろうなと思いました。石田氏が描く「心の交流」がなくなった時点で、性行為は単なる搾取になるのでしょう。「エゴイスト」でも「俺がお前を買ってやる」が感動的だったのは心の交流があったからで。

 

残念ながら一般には、売春行為にそういう心の交流は担保されないし、むしろ身の危険に晒されることの方が多い。何より、この小説の主人公が経済的弱者ではなく、この仕事を「選んで」やっているというところが最大のポイントだと思います。世の中には「やりたくないのに仕方なくその業界に入った」という人が多いかもしれないし、この「安易な手段」があるからその状況から抜け出さない人もいる。そういう人たちを守るために売春が禁止されているわけですよね。

 

翻って、売春の道があったからこそ人生を立て直すことができたと話している女性について、このブログではすでに一度触れているのですが、BTSとも縁があるCardi Bです。彼女とMegan Thee Stallion がいつかリリースした WAP の記事でフェミニズムについてひとしきり語りましたが、なぜそれを今思い出すかというと、空港から乗ったウーバーでPrincess Dianaという楽曲が流れていたからです。

 

これ自体はCardi Bの楽曲ではなく、Ice SpiceとNicki Minajのコラボ楽曲ですが↓

 

 

実は、前回記事の奚琴、個人的にすごく好きな類のラップ曲なので、YouTubeランキングをチラチラ見ているんです。でも米国地域ではなかなか1位にならない。ずっと3-4位を行ったりきたり。上位5曲を見ると、英語楽曲が1曲のみ(他はスペイン語等)という、英語覇権の衰退を改めて感じさせる並びではあるものの、5曲中3曲がラップで、奚琴の上に居続けているのが、このPrincess Diana なんです。

 

でも女性のラップって大体、「私、床上手でしょ」が理念なんですよね。男性のラップもまあ大体がそういう傾向なわけですが。女性が男性と同じように欲望に忠実に生きることを肯定することで、その地位を高めるというアプローチが米国では少なくとも一定の支持を受けているということですね。

 

娼夫を買ってしまう女性像だけでなく、娼婦になることをも大絶賛する世界観。

 

娼夫シリーズは、男性作家が、娼「婦」ではなく、娼「夫」を描いたから支持されたんだろうなと思っていましたが、男性も女性も関係なく性の大量消費を肯定しているらしい米国は(法的には売春行為はもちろん米国でも違法です)、石田氏が言うように、草食化した日本より本当に幸福指数が高いのか。

 

その答えを実感するほど私はまだ米国社会を理解できていませんが、7年前の私は、7年後の私が同じ日に同じ土地で、性についてこんなに大真面目に考えていようとは思ってもいませんでした。

 

ダイアナ妃も自分の名前がこんな形でこんな楽曲に使われようとは思わなかったことだろうけれど、彼女もまた華やかな公人としての姿の影で、女性蔑視の対象として苦しんだのは確かなわけで。石田氏が育てた「リョウくん」ならあのダイアナ妃をも孤独の淵から救っただろうと思うと、売春を「間違っている」とは言い切れない私です。

 

追記:

 

遅れてグクのwライブの内容を知りました。

 

「コメントは見ない」

「コメントを見なくても皆さんを感じます」

「寂しかったり色々と考えがある時にライブをつけます」

「(でも)おかしなことに皆さんのコメントをオフにすると快適です」

「繋がっている気がするから気分がいいです」

 

これ。まさに「大量消費されている人」が、それを不快に感じて、消費の象徴のように大量に送られてくる「内容のない」コメントをオフにすることで、逆に繋がった気になっている、という状態ですよね。最近ナムジュンもテテもコメントに辟易しているような発言をしていましたが、彼らは今、コメントを見ても「心の交流」が感じられず、むしろ消費の対象になっていることを実感してしまうところまで来ているのでしょうか。

 

彼らのビジネスはもちろん体を売ることではないけれど、上記小説の主人公が「自分の心を保つために1日に1人しか客を取らない」と決めていたことを思い出しました。「心の交流」はきっと数が増えすぎると否が応でも質が下がってしまう。1ヶ月前に仕切りにグクの記事を書いていた中で「寂しさを紛らわせようとするあまり質を問わないコミュニケーションになっている」と書きましたが、彼が今回「質」を保つために大量のコメントを完全に無視することを選んだのはとても興味深いと思いました。

 

「寂しい時に会いたい対象」だけど、そんな相手の発信を無視することでしか「自分が理想とする関係」を維持できない。

 

身売りしている人間が、客を取ることで寂しさを紛らわせながら、でも相手を見てしまうと自分が消費されていることを思い出してしまうから相手のことは意識しないようにする、というのとどう違うのか。

 

でもグクはこんな言葉も添えたようですね。

 

「人は皆それぞれ事情があるのだなと心に置いておかないと」

 

彼はそれでも理解しようとしているわけですよね。買う側にもそれぞれの事情があると。石田氏が描いた「温かい視線」を持とうと努力している。ただ最大の違いは、グクの場合は全てがバーチャルだということですね。相手の顔も体も見えなければ声も聞こえない。小説の中の娼夫が正気を保っていられたのはむしろ、相手に触れ、その人の生活を知り、息遣いを耳元で聞いて、1人の人間として認識することができたからなのかもしれない。そういう類の触れ合いだから「心の交流」を実感し、生きがいを感じることができたのだとすれば。

 

「触れられない相手」からの「大量消費」に虚無感を覚えずに正気を保つには。そんなことをBTSメンバーは今、多かれ少なかれ考えているのかもしれませんね。

 

最後までお付き合いくださってありがとうございました♡