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申し訳ありませんが、BTS関係ない投稿続きます。これでとりあえずJpop×読書感想文は一段楽だと思いますが、ただこれ、最高につまんないです。ほんとにTMI感傷日記以外の何ものでもないというか。
青春の病に侵され 儚いものばかり求めて いつの日か粉になって散るだけ 青春はどどめ色 青春にサヨナラを
<中略>
無常の水面が波立てば ため息混じりの朝焼けが いつかは消えゆく身であれば こだわらせるな罰当たりが
切れど切れど纏わりつく泥の渦に生きてる この体は先も見えぬ熱を持て余してる 野ざらしにされた場所でただ漂う獣に 心奪われたことなど一度たりと無いのに
青春のきらめきの中に 永遠の光を見ないで いつの日か粉になって知るだけ 青春の儚さを
太宰の「女生徒」をこの度初めて読んだのですが、同じ自意識を題材に、人間失格とはまた少し違う切り口で描いているのが面白いですね。
特に、自分の成長を自覚する思春期の主人公が、その成長に伴う変化を「汚らわしいこと」と捉えているのを読んで、なるほど!普通の女の子はこんなふうに感じるものなのかと納得しました。いや、こういう視点ってたぶん今までにも何度も読んだり見たりしたことがあって疑似体験しているはずなんですが、個人的にこういう葛藤って思春期にあんまりなかったんです。正直言ってしまうと。
元々私は2次性徴も遅くて、中高一貫の女子校に通っていたことや、20代中盤に差し掛かるまで「恋愛感情」というものを経験したことがなかったことも多いに関係があるとは思うのですが、この「女性として徐々に汚れていく感覚」って、いまだに頭でしか理解できていない気がしていたんです。
太宰は男で私は女なんですけど。
太宰の方が圧倒的に女性の思春期をよく理解しているというか。すごいですね、この人。こんな感受性があったら、そりゃ死ぬしか生きる道がなかったのも頷けるし、男性が処女に惹かれる理由をとてもわかりやすく解説してくれているようにも感じました(それがポイントじゃないのはもちろん理解しているつもりなんですが)。
私は最初に入った大学の学部の男女比が3:1ぐらいだったんですが、入学オリエンテーションの後に健康診断のためのグッズをもらうのに並んだ時のことを今でもよく覚えています。採尿キットのところに差し掛かった時に、それまで見たことがないタイプで「?」ってなったんですよ。これ、女性は無理じゃね?って。で、女子校出身だったんで、すぐ後ろに女の子がいる感覚で、「これって」って話しかけようとしたら、後ろにいたのが男で、その後ろも男で、その後ろもその後ろも、、、前見ても男、男、男で誰にも聞けないじゃん!ってなってとりあえずその「男性用」採尿キットを手にして帰ったんです。でもそれを手に取った時も、これ男性用だったらめっちゃ恥ずかしい、、、って思いながら、すごく挙動不審だった。
ってだけの話なんですが、たぶん、これが私の数少ない「性を巡る自意識」のうちの1つで。
処女膜が破れたぐらいで人間の何かが変わるとは到底思えないし、実際、私はここで話すのも憚られるような経緯を伴う初体験だったので、当時は天地がひっくり返るぐらいの思いでしたが、根本的には何も変わらなかったんじゃないかなと、この作品を読むまで思っていたんです。
でもちゃんと考えてみたら、あの退っ引きならぬ経緯があったから、アセクシャルになってしまったというか、その傾向がより強くなってしまったのかもしれないし、そもそも医者になるって急に思い立ったのもあの1件の後だったなぁなんて思ったり。自分のせいじゃなかったし(自業自得だったんじゃないかと自分を責めたりはしましたが)、自分が「汚れた」とは思わなかったはずなんだけれど、死にたいと思ったのもこの時が初めてだったのは確かで。
実は私、パーソナルスペースがバグってるっていうのは親しくなった男性にちょくちょく指摘されてはいて(バンタンのこと何も言えないっす!)、すごく気をつけてはいるつもりなんですが、付き合う前の微妙なフェーズってありますよね。そこで「急に触らないでオーラが半端ない」って言われるたびに、そういうのって男性はどうやって感じるんだろうって思っていたんですが、私に関心を示してくれた男性ってみんな隠れ太宰だったんですかね。。。
例の私が唯一身体を許せた相手って奴が物書きを目指していたんですが、皮肉なことに彼が私から「触らないでオーラ」を感じていた様子は全くなく、私が身体を許すことになったのも単にそのせいのような気もします笑
でもたぶん、「女生徒」の彼女はすごく魅力的で、彼女はきっと「触らないでオーラ」なんて出てないと思うんです。むしろ「触ってほしいオーラ」を出していることに自分でも気づいていて、それをすごく汚らわしいと思っている。そんなことより、もっと崇高な生きる意味を探さなければならないと信じているけれど、きっと彼女はいい具合に「折り合いをつけて」生きていくんだと私は思いました。それが世の大半の女性というか人間の生き方なわけで。
私もそうなる予定だったはずなのに、もしかすると、未だに触ってほしいオーラを出せないで、この「折り合い」を付けられずに、その結果いつまでも青春病に囚われているのが、今の自分なんじゃないかっていうのが、読後の率直な感想でした。
いつかテテが「BTSを一言で表すと」みたいな質問に、「一生青春」って答えていた気がするんですが、BTSに私が惹かれたのもこの青春病の一環なんだろうな、と。人間がそれぞれ持ってる時計って一個だけじゃないと思うんですが(グクもタトゥーの時計以外に私たちに見せていない時計をたくさん持ってるはず)、私の場合も、自分の中で止まってしまった時計ってのが確かに1個あって、その針を無理に動かさなくいいんだよって言ってもらえた気がしたからBTSにハマったのかなと思ったり。
でもここまでダラダラ書いておいて何なんですが、青春ってそんなに素晴らしいもんじゃないですよね。一生そこに針を留めておくような場所じゃない。テテが言ってる「一生青春」も「俺は老人ホームに入ってもコンサートをやる」って意味での青春なわけで。
この間、久しぶりにエドと話した時に、日本の作家は欧米作家と比較して、10代後半から20代前半の人物を描く傾向が圧倒的に強いことは欧米では有名なことで、日本人の「青春」への執着たるや、国際的な議論の対象になるほどのことだと聞いたんですが、上記に引用した藤井氏の「青春病」に出てくる最後の一節、面白いですよね。
青春のきらめきの中に
永遠の光を見ないで
翻って例えば、前回記事のタイトル曲にした雨燦々の常田氏の歌詞はこんな感じです:
この瞬間この舞台を 生き抜くから
青き春の瞬きから 何度醒めようとも
何度醒めようとも思い出の中で生き抜く青春。これですよ、日本人が本来愛する青春像は。常田氏の歌詞は基本的にどれもこれですね。「刹那の中に永遠を見出す」。良い意味ですごく執着を感じる歌詞が多いように思います、彼は。
私にとってはその対極にいるのが藤井氏で。彼の哲学の根本には「我々は最初も最後も全て持っていながら何も持っていない存在である」という禅問答みたいなのが走ってますね。だから「青春」にも執着しない。青春に永遠を見出すなんてとんでもないって感じなのかな。仏教的なのか、逆に西洋的なのかはわかりませんが。いずれにしも青春を美化する日本文化を「青春病」って言い切ってますね。
だから私も執着を捨てなきゃなって思います。でもそのためにはまずその執着に気づく必要があるわけで。「女生徒」は私が気づいていなかった執着に気づかせてくれたような気もします。
ついでに言うと、テテペンさんも風ペンさんもいやいや全然違うからやめてっておっしゃると思うんですが、今の私にとってはこの2人、結構似てるところがあるんですよね。テテが言うところのクムシラコ精神って結局、全部手放すってことなわけで。
あとこの藤井氏、表情が印象的じゃないですか?西洋文化圏出身の人間並みに表情が豊かだなって、テテを初めて見た時に思ったことを、藤井氏を見て思い出しました。しかも例の「手放してる感」が2人の年齢離れしたセクシーさに共通する部分だと勝手に思っています(参考↓)
何が言いたいのかよくわからない文章になってきましたが、結局は、太宰が言うとおり、「明日もまた同じ日が来る」ということです。
幸福は一生来ないし、我々はそれをわかっている。でも幸福は一夜遅れてくるとも言われている。
だから青春病の先に幸福が訪れると信じて寝るのがいいのでしょう。
最後までお付き合いくださってありがとうございました♡