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いつものごとく突然のTMIですが、私は父が泣いているのを3度しか見たことがありません。1回目は母方の祖父が亡くなったとき。もう20年前になりますが、主治医に予後を聞きながら喉を詰まらせた父の様子をよく覚えています。2回目はその2年後、自身の父が亡くなったとき。危篤の知らせで駆け付け、数時間後に見送ることになりましたが、その翌朝、木造の実家で川の字に並べた布団の中、急に嗚咽を漏らして泣き出したのです。たった数分の出来事でした。そして3回目が先日、ニュージーランド(以下NZ)人の親友Jの訃報を受けて泣き崩れたときでした。1時間後にまた電話してもまだ収まる様子はありませんでした。

 

ひときわ輝いていたソウル

初めて見た また違う世界

汗が滲んだまま出会った君は

なんだか変な子だった

僕は月から

君は星から

僕たちの会話は宿題みたいだ

ある日はベストフレンド

ある日はライバル

僕はただ君のことを知りたいんだ

やあ、僕の宇宙人

僕たちはお互いにとってミステリー

だからこそ特別なのかな

 

父とJの出会いはちょうど30年以上前、私が生まれる前、父が初めてNZに出張したときに遡ります。初めてJと出会った父は、今の私とそう変わらない年齢だったと思いますが、その出張を機に、Emailもない時代に交流を続け、数年後に我々一家がNZに越した時にはJはずいぶん喜んで歓迎してくれたようです。

 

引っ越し当時の記憶はほとんどありませんが、その後数年に渡って何度もJの家に招待していただき、逆に我が家にもJ一家が来てくれて、聞くに堪えない習いたての私のピアノ演奏も楽しみにしてくれていたのを覚えています。職場で知り合って結婚されたタイ人の奥様は、日本食以外かたくなに食べなかった私のために、いつもおいしいココナツ餅を準備して待っていてくれました。夫妻には実子はいませんでしたが、奥様の甥御さんWを養子として迎えていて、私はこの家族を通して養子縁組という親子の在り方についても学びました。

 

青い目と大きな身体が印象的な風貌のJは、会うと必ず温かいハグで迎えてくれる人でした。ジンに負けないぐらいの引き笑いが今でも耳元によみがえってくるぐらい豪快に良く笑う人でした。

 

我々一家が帰国してからも、何度か日本を訪れるたびに狭い我が家に泊まり、母は正直嫌がっていたけれど、父が絶対に泊めるというので、毎回リビングを彼に明け渡してもてなしました。父が働きながらPh.D.を取るために死に物狂いで論文を書いていたときには10年以上に渡って数えきれないほどの添削をしてもらっては、ことあるごとに近況を報告しあっていました。父が癌の診断を受けたときにも、一足早く同じ経験をしていたJが誰よりも親身に相談にのってくれて、術後もよく励ましてくれました。医療者でかつ娘でもある私でさえ緩和できなかった父の孤独を理解し、寄り添ってくれた唯一の存在だったと思います。

 

いつかこの歓声が止まるとき ここにいて

僕のそばにいてくれないかな

永遠にずっとここにいて

君の小さい小指のように

7回の夏と寒い冬より長く

数えきれない約束と思い出より長く

 

そんな2人が最後に会ったのは、パンデミック前、父の最後のNZ出張のとき。東京オリンピックを見に来ると言っていたJ夫妻の来日を、母も父も、もちろん私も心待ちにしていましたが、ついに叶いませんでした。

 

そして先日、Jが心筋梗塞で突然死したと、Wから私に連絡があったのです。S(父)にメッセージを送ったが、気づいていないようであると。就寝しようとしていた私は画面の文字を疑い、すぐに父に連絡しました。電話に出た母の驚きの声と父の部屋に向かう気配。

 

何を言われているのか理解できず、混乱のまま電話口で泣き出した父の声と同時に私に届いたWからのメッセージの続き。

「SはJにとって日本の弟だったと伝えてほしい」

 

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翻って、父にとってのJと同じような友人が私にもいます。以前このブログでも登場したあの欧州出身の彼女です。厳しめのグテシパでもある彼女と出会ったのは、大学病院で開かれた国際交流会。何となく気まぐれに行ってみたその交流会の解散後、私は別の医師と話していましたが、彼女が私の様子を伺いながら、何やら待っている様子が視界の端に映っていました。私が一人になると子犬のように駆け寄ってきた彼女。日本人の研修医の友達がいないからぜひ友達になってほしい、という単刀直入で熱心なアプローチに心が緩んだ私はすぐに彼女とラインを交換しました。

 

よくよく話を聞いてみると、まだ日本語は話せないが、日本で医師免許をとることを目指しているということでした。医師免許を取るだけでも大変なのに、日本語の勉強から始めるなんて、控えめに言って、どうかしてると思いますよね。でも彼女は出身地ですでに医師として働いた経験があり、私も米国を目指していたし、少し現実味がないのはお互い様で、むしろ同じ夢を共有している我々はすぐに仲良くなりました。かつて父がJとすぐに意気投合した時のように。

 

5年の時を経て、彼女は日本の医師免許をとるには至らなかったものの、博士課程を終えながら、日本語検定1級を取得しました。私はといえば、以前お話しした通り、やっとの思いで目標の免許を取得しましたが、その矢先、彼女は母国に戻ることにしたと決心を話してくれました。数か月前から身内の体調を気にして日本での就職を思い悩んでいた経緯は知っていたので、彼女らしい決断だと思いました。その1か月後に2人で行った旅行。観光もそこそこに、何時間も歩きながら、電話で伝えきれなかった近況について語り合ったかと思えば、夜はBTS鑑賞会を開いて真剣にグクテテについて話し合ったりして。

 

旅先で訪れた私の母校、10年ぶりに目にしたその校舎を写真に収める私の後ろ姿をいつの間にか撮影して、旅の終わりに送ってくれるような、粋な彼女。来年の進路に悩む私の話に何時間も付き合ってくれて、もういっそのこと、アメリカは置いておいて欧州の免許を取ればなんて、提案してしまう彼女。「らじこはいったい何がしたいの」と、どんな面接官よりも厳しい視線を向けてくれる彼女。今日という日が終わる頃には、完全に日本を離れてしまう彼女。

 

30年後の我々はどうなっているだろう。Jの訃報を聞いた夜、胸を痛めながら毛布に包まった私は、彼女のことをふと考えていました。現実的に考えたら、次に再会するのはパンデミック明けの国際学会かもしれないけれど、そんな感動的な美しい再会のためには、私も、彼女も、これまで以上に頑張らなければならない。

 

SNSのお陰で、世界はギュッと小さくなりましたが、それでもやはり大切な人との別れというのは少しばかりの傷跡を残します。今生の別れともなれば、胸をえぐられるような、あるいは自分の身体の一部をもぎ取られるような、そんな激烈な深い痛みも伴います。30年後は私が、あるいは彼女が経験することになるかもしれない痛みに、口を閉ざしてしまった父。後悔もいろいろとあるに違いありません。

 

この話を彼女に伝えたときの返信のメッセージには、お悔やみの言葉とともに一言、「人は記憶の中で生き続けることを忘れないで」とありました。

 

月並みな言葉ですが、救いが詰まった素敵な言葉。「認知症にならない限りは」と付け加えてしまうあたりが彼女らしいけれど、たとえいつかは記憶もろとも消えてしまうとしたって、「歓声が消えたときにそばにいて」ほしいと思える誰かに出会えたこと、それ自体が何物にも代えがたい奇跡だと思う今日この頃。

 

いつかこの歓声が止まるとき ここにいて

君は僕の運命の親友

永遠にずっとここにいて

君は僕の運命の親友

7回の夏と寒い冬より長く

数えきれない約束と思い出より長く

 

今はJが最後の苦しみから解放され、そしていつかは父も痛みを伴わずにJとの友情の記憶に身をゆだねることができる日がくることを願わずにはいられません。Wが言ってくれたように、2人は国境を越えた兄弟そのものだったから。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました♡