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"This is a true love song.  Not only is it about the person you love the most, but it's about always fighting for love."

これは本当の意味でのラブソングなんだ。最愛の人のことだけではなくて、愛のためにいつも戦うことを歌ってるんだ  ー Chris Martin

 

어둠이 내겐 더 편했었지

길어진 그림자 속에서
And they said that we can't be together
Because, because we come from different sides

暗闇の方が僕にとっては楽だった

長く伸びる影の中

彼らはこう言ったんだ、僕らは一緒になれないって

だって君たちは世界が違いすぎるだろって

 

너는 내 별이자 나의 우주니까

지금 이 시련도 결국엔 잠시니까

너는 언제까지나 지금처럼 밝게만 빛나줘

우리는 너를 따라 이 긴 밤을 수놓을 거야

君は僕の星であり宇宙そのもの

この試練だって振り返れば一瞬のこと

いつもそんな風に輝いていてほしい

この長い夜を一緒に織りなすから

*韓国語部分は英訳を和訳したものです*

 

大袈裟かもしれないけれど、最近、目まぐるしい変化を遂げようとする世界を、この目で見ることができる時代に生まれてきて幸せだなと感じています。ポストオバマのあからさまな差別の時代にパンデミックが起き、アジア人差別が激化して、そこに偶然出くわした韓国出身の7人の青年が、もしかすると差別の時代だからこそ、とりわけ熱く支持されて、偶然にも7つの扉を有する国連本部から全世界に向けて歌を届けることになり、しかも強い絆で結ばれたその7人の中にはもしかするとLGBTQに属する人もいて、そんな彼らが、今度は人種も国籍も言語も超えたコラボレーションを実現して、愛のために境界を超える歌を歌うというのは、ある種の運命かもしれないと感じるのは私だけでしょうか。。。

 

何はともあれ、My Universe を聴いて、私がもっともうれしく思ったのは、歌詞の一部が彼らの母語である韓国語だったことです。この点をうれしく感じた方は多いのではないかと思います。そこで今回ご紹介するのは、この気持ちを同じくしたであろうイギリス人大学生によって書かれた記事です。BTS and the Othering of Non-English music – The Oxford Student

 

COLDPLAY, BTS

 

BTSが海外での注目を集め始めたのはBS&Tをリリースした2016年頃からとのことですが、名門オックスフォード大に通う筆者は、はじめてBTSを目にして彼らを一蹴したときの自分の心境についてこう語っています。だいたいラップラインのステージネームがダサすぎる。Suga、J-Hope、、、そのうえ、Rap Monsterなんてどうかしている、と。そして、このような色眼鏡でBTSを見ていたのは彼女だけではなかったのです。

 

Many of us, particularly in Western societies, hold preconceptions of what K-pop is, for whom it’s made, and why it’s just not for us.

多くの欧米人が、KPOPに対するネガティブな先入観を有し、KPOPとは特定の人口をターゲットにした特殊な音楽で、自分たちが消費者になることはないと考えていた

 

しかし、コロナ禍で母親の影響を受けてBTSに沼落ちした筆者は、自分がいとも簡単に批判したラップラインのステージネームこそ、彼らの進化の証であると言います。その進化とは、すなわち、「男性らしさを過度に強調するヒップホップを体現する粗削りな試み」が、いつしか「ジェンダーやセクシュアリティーを語る歌詞を通して複雑な人間模様を受け入れる試み」へと変化していったというのです。

 

このことは欧米メディアではたびたび見逃されてきました。韓国版One Directionなどとレッテルを貼って、怠惰な欧米メディアはBTSを単純化したがりますが、それは、欧米文化が、異文化に直面した時に常に抱くある種の不安を表しています。その不安を解消しようとして、欧米メディアは既存のステレオタイプに外国文化を落とし込もうとする傾向があるのです。しかし、BTSに関して言えば、彼らをOne Directionと同じ「boyband」と呼ぶことは、つまり、彼らの芸術性を否定するための蔑称としての表現であると思えてならない、と頭脳明晰なオックスフォード大生は主張します。

 

KPOPは確かに多くの問題を抱えています。幼くして事務所に入所する練習生が課せられる残酷なまでのトレーニングや、異常なまでの白い肌への執着、そして性差別。奴隷契約によって搾取されるアイドルが自ら命を絶ってしまう現実。これらの話が、欧米ではあまりにも有名になりすぎて、どのKPOPグループも同じ背景を有するものとして一様にに語られてきました。それは、考えてみれば当然の展開だったのかもしれません。なぜなら、欧米では、常にアジア文化というのは権威主義的で、排他的、支配的な性質をもつものとしてメディアで描かれてきたわけで、そのようなステレオタイプに、KPOPはあまりにもよく当てはまったからです。

 

以前から欧米は文化的に異なる芸術スタイルを排除しようとする傾向がありました。黒人音楽をメインストリームから分離するためにわざわざ「urban」というジャンルを確立したり、白人アーティストが異文化を自らの文化になじむように流用したり、こういったことはよく観察されてきました。

 

It is a pernicious hangover of the ‘separate but equal’ ethos.

それは、「区別はすれど平等」の精神が立ち悪く開き直って浸透した姿である。

 

このように表現する筆者もまた、2019年のMTV VMAでBEST KPOP賞が新たに作られた点に触れています。BEST POPやArtist of the Yearなどの主要部門の候補として考慮されずに、BTS用に作られた賞を受賞させられることに多くのファンが疑問を抱いていたという点です。BTSの文化的な影響力を鑑みれば、人種によって作られたカテゴリーで彼らを排除することを正当化できないのは自明でした。

 

KPOPを一枚岩としてとらえ、メインストリームから分離しようとする欧米の対応は、アジア人を皆「同じ外見の」同じ存在であるととらえる欧米の見方をそのまま反映するものだと言います。2018年にBTSがEllenのトークショーに招待されたとき、メンバーはまたしても自己紹介を強いられましたが、その理由は、髪の色がみんな変わってしまったからということでした。Ellenは髪の色に関係なく、5 Seconds of Summerのメンバーを識別することはできるというのに。

 

BTS Coldplay×BTS『My universe』リリース♪♪ | 『テテに癒される日々』

 

筆者は、自分がBTSに出会ったタイミングが2020年の夏であった点も、彼女が彼らに惹かれることになった理由の一つに挙げています。それは世界中の有色人種にとって痛みを伴う夏でした。だからこそ彼女は欧米音楽業界が提供する、英語圏至上主義の音楽に嫌気がさしていました(文脈から彼女自身も移民であると思われます)。

 

I began to view language and specifically the use of English – a universal lingua franca– as a symbolic reminder of the forced separation from my ethnicity. While I had always known of the linguistic power disparity, I was suddenly plunged into a state of hyper awareness, a tunnel vision that focused on its historic and contemporary weight as a colonial tool. It was through this lens that I saw and listened to BTS. To me, despite often deliberately appealing to a Western audience through their music, they represented the possibility of shattering racial and linguistic barriers as they broke through the global industry proudly and unabashedly singing in their native language, Korean.

世界の共通言語である英語を使うことこそが、(自分や家族および祖先が)かつて自らの民族からの分離を迫られたことを思い出させる象徴的な行為であると気づいたのだ。以前からそれぞれの言語が有する力の差は意識してきた。しかし、ここにきて、植民地化を進めるツールとして言語が歴史的に果たした重い役割と、今現在同様に果たしている役割について強烈に意識し始めたのだ。そして私は、まさにこの視点でBTSの音楽を聴き、彼らを見ていた。ある程度、欧米に媚びを売るような態度をとってもなお、世界マーケットに向けて堂々と恥じることなく母語の韓国語で歌う彼らの姿はある可能性を代表していた。人種と言語のバリアを粉々に破壊する可能性だ。

 

だからこそ、多くの人は2020年グラミー賞にノミネートされたのが全編英語のDynamiteであったことに複雑な心境をいだきました。異文化との交流の必要性をなくすべく、欧米がすべてのエンターテインメントを母語の英語で消費しようとする傾向は、植民地時代の大きな名残だと筆者は言います。米国人や英国人によるインタビューに望むとBTSは必ずと言っていいほど全編英語のアルバムをリリースする予定について聞かれます。

 

This interrogation speaks to the entitlement of the Western music industry and a portion of their consumers. Needless to say that BTS shouldn’t have to produce their work in English, just as say, Ariana Grande definitely shouldn’t have to suddenly produce a full length Korean album just to be recognised for her global impact and talent. 

この尋問は欧米音楽業界やその消費者たちの権利意識を示唆するものである。BTSは言うまでもなく英語の作品など作る義務はないのだ。Ariana Grandeが世界で認められるために韓国語のアルバムを発表する必要がないのが当然であるように。

 

考えてみれば、BTSはありがたいことに日本語でも曲をリリースしています。さらにさかのぼれば、BoAや東方神起など10年前に日本で一世を風靡したKPOPアーティーストは「JPOPアーティスト」として活躍するために相当なレベルの日本語まで習得していました。その意味では日本も欧米と似た立ち位置にあるのかもしれませんが、皮肉なことに、特に欧米は、マーケットのグローバライゼーションについて語るとき、真の意味での多様性ではなく、非白人の非英語圏アーティストが、英語を表現手段として利用して白人の観客向けの作品を発表することを「グローバライゼーション」だと勘違いしている節があるのです。Despacitoの英語版が大成功をおさめ、BTSのDynamiteが(彼らの韓国語の曲を抑えて)グラミー賞にノミネートされたことはほんの一部の例にすぎません。

 

しかしパンデミックが始まってからとどまることを知らないアジア人差別の煽りを受けるように、BTSはこれ以外にも、もっとあからさまな差別に直面してきました。コロナウイルスのように一掃されるべきであるとののしるラジオ番組の司会者もいました。そして彼らを「フェミニンだ」と評価するさりげないコメントでさえ、実は、アジア人男性を排除するために彼らをフェミニンな存在として決めつけてきた欧米の価値観を反映する差別的な発言であるということに、発言者本人が気づいていないという問題が隠れています。

 

BTSはその点に関しても、欧米的男性らしさに繰り返し疑問を呈してきました。メイクをし、女性用とみなされる洋服を着こなし、それを当たり前とするKPOP文化の一面は、ともすれば以前の投稿で触れた、Queerbaitingというおなじみの問題にもつながってしまいます。しかし今回の記事の筆者は、BTSが目指す精神として、2018年にナムジュンが行った国連スピーチのフレーズを最後に引用しています。

 

“No matter who you are, where you’re from, your skin colour, gender identity: speak yourself.”

「出身地、肌の色、ジェンダーアイデンティティーは関係ない。それぞれが自分自身について語ろう」

 

思えば、BTSの歩みとは、果敢に自己表現を試みてきた過程そのものなのかもしれません。たまには批判を恐れて尻込みすることもあるけれど、それでもできるだけ自分自身に正直に生きようともがく姿を見せてくれる彼らのように一歩踏み出そうとしている人の存在に気づき、その声に耳を傾けることができれば、欧米も日本も本当の意味で多様性を受け入れるような変化がもたらされるのかもしれません。

 

そしてその時には言語も人種もジェンダーもセクシュアリティーも関係なく、思いやりという共通言語で世界が一つになっていくことを願ってやみません。(こんなことを言ってしまうなんて、脳に花でも咲いているのではないかと言われてもしょうがないけれど)そうなれば、「カミングアウト」などという言葉さえも過去のものになるのかもしれませんね。

 

My Universeを聴いて、そんなことを考えました。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございます!