ポワントとトウシューズ メモ | ひびのおと

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 ロマン主義と呼ばれる運動は、当然ながらバレエの世界だけの現象ではなく、芸術のあらゆるジャンルを巻き込んだが、バレエで発生した変化は、ほかと比べようもないほど重大だ。 すなわちポワント(爪先)を使うテクニックとトウシューズの出現である。 現在でもトウシューズがバレエの代名詞のようなものであることを思うと、その重大さはどんなに強調してもしすぎることはない。
 
 しかし重大なのはトウシューズそれ自体ではないのだ。 いや、シューズも重要だが、しかしあくまでも体の外にある道具にすぎないと言うこともできる。 それよりももっと重大なのはポワント技術の導入によって身体の使い方が変わり、ひいてはバレエの規範、美意識が変わってしまったということなのである。 早く回り、高く跳ぶために、ダンサーはドゥミ・ポワント、つまり踵を高く上げて動くようになった。 また、みぞおちを引き締め、お尻を中に入れるようにもなった。 それが、現代のバレエダンサーに見られるような、胸のふくらみがほとんどない細い体を必要とするようになり、やがてはそれを美しいと感じさせるまでに、美意識そのものを変えていったのだ。
 
 それを説明する原理はとても簡単である。 コマの構造を考えてみれば分かるように、早く回転し、しかもそれを長時間安定させるためには、ボディの中心軸が真っ直ぐ一本に、かつ地につく部分が点になっている必要がある。 しかし人間の土台はもともと前後と左右に張り出しているのが自然なのだ。 仏像やマリア像に見られるように、人間がふつうに立つと、前後の軸の中心は足の裏の土踏まずのあたりにあって、二つの踵は拳一つ分ほど開き、その間に左右の中心がくる。 それが「地に足をつけた」つまりバレエ用語でいう本来のア・テール(足が地についた)の状態である。
 
 それなのにバレエ人間はなぜか、より高く上がり、より早く回ろうとするようになった。 それがどういう根深い要因によるものかという考察はさまざまに可能であって、それなりに興味深いものだが、少なくとも言えることは、それが体のポジションの変化を呼び、ついにはポワントの使用につながったという事実である。 つまり、バレエ人間はコマになろうとしたのだと言ってもいい。
 
 こうして、いわゆる足の一番から五番までの五つのポジションは、この時代にさらに理想に近づいたのだった。 というのも当初、足のポジションは理念的なものにすぎず、一番といって実際に百八十度に開いていたわけではなかったのだ。 宮廷バレエの時代のイラストを見ると、模範的な足も現代の初心者のように斜めになっている。 それがバレエの変化とともに、どんどん開いていった。 理由は、地についている部分の前後左右の幅を小さくして、より点に近くする必要が生じたからだ。 以前、十八世紀中葉の観客が、プレヴォの時代には、足はもっと内輪(アン・ドゥダン)だった、と嘆いたという話をした。 その時代から、足のポジションは少しずつ少しずつ外に開いていったのである。
 
 通常、バレエという芸術について語る時、この五つのポジションはとても大きな意味を持っていて、このポジションがすでに宮廷バレエの時代に定められていた事実をもって、バレエ理念の一貫性の証とすることになっている。 それは確かにその通りではあるのだが、しかし一方では理念は理念過ぎなかったということも、知っておく必要がある。 外輪(アン・ドゥオール)を理念としたことが、その後の変化発展を必然的なものにしたのは確かだが、だからこそ人々が古き良きバレエの内輪(アン・ドゥダン)を懐かしみつづけたのもまた事実だからだ。
 
 十九世紀はじめのオペラ座では、ロシア帰りのシャルル・ディドロという振付師が出て、ガルデルとミロンをおびやかした。 彼の『フローラとゼフィール(花とそよ風)』(一八一五)というバレエでは、主役の西風の神が機械仕掛けのワイヤーで高々と苦もなく飛んで、劇場を熱狂させた。 この機械仕掛けの飛翔 volerie は宮廷バレエでは盛んに用いられていたが、その後廃れたものを、ディドロが復活したのである。
 
 この時フローラを踊ったのがジュヌヴィエーヴ・ゴスランで、フランスで初めて本格的にポワント(爪先)で踊ったと言われている。 大きな期待を抱かせながら、しかし彼女はほんの一、二年舞台を踏んだだけで世を去ってしまった。 だがそのときすでに、彼女の師クーロンはもう一人別の少女にレッスンしていた。 この少女こそ、後のマリー・タリオーニである。
 
 
 
 
-バレエの歴史 佐々木涼子-