『神去なあなあ、日常、夜話』・・・三浦しをん作 を読んで | マロウの徒然日記

マロウの徒然日記

ガーデニング記録を中心に、日々の暮らしをつれづれなるままに・・・

台風の被害があちこちで聞かれますが、被災された方々には謹んでお見舞い申し上げます。
さて、久しぶりの更新になりました。

今夏の暑さには、例年に比べて庭作業への意欲をそがれ、
スローテンポながら読書とを楽しんでいました。
最近読んだなかでおもしろかったものを、久しぶりに感想を書いてみました。

『神去なあなあ』という題名なんですが、
それってなんのこと?
題名の意味がわからへんなあと思いながら読み始めました。
三重県の山間の村で、突如林業に携わることになった青年の話でした。

村の名前が神去村(かむさりむら)。
「なあなあ・・・」っていうのは、その辺りの方言でいろんな意味に使われているようです。
「ぼちぼちやな」
「まあええやんか」
「このへんにしとこ」
「ゆっくりいこう」などみたいです。

そういえば、林業についてはほとんど知らないなあ。
小学校の社会の勉強でも、工業や農業の割合に比べて林業を学習する割合ってすっごく少ないよね。
こんなに山地が国土を占める割合が多いのに。
斜陽産業と呼ばれているなんてね。

でもこの作品に出てくる神去村は、素朴で穏やかで人情味があふれているように描かれている。
もっとも、林業は自然を相手にする仕事だから、その厳しさも過酷さも伝わってくるんだけど、
なんせ、村人の人柄というのか土地柄というのか、基本的に仲良しで穏やかなのよ。
「仲良し」なんてまるで小学生が使うような言葉だけど、
今頃は、しみじみとその大切さを感じるね。
いじめとか、妬みとか、田舎だろうと都会だろうとどこでも殺人事件が起きるような世の中だもん、
きりきりして、ストレスの多い人間関係がつきものになっちゃってるよね。

でも、この作品の神去村では、老若男女が一堂に会して、
宴を催したり、古式伝統を受け継いだ祭りの準備をしたりなど、
『みんなで力を合わせて』というのが根付いているんだね。
そもそも林業は、
広大な山々で、苗木を植え、何十年から何百年かけて育て、育った木を切り、山の斜面を重い木を運び出し・・・
というような作業なんだから、
一人で、ではなく、
常に、助け合い、分担し合いという協力体制が必要なんだ。
しかも、山の天気は変わりやすく、山での危険予知力というのは、
それこそ知識だけでは足りず、長年の経験知というものが必要なのね。
それだけに、じいちゃんのような年老いた先輩の言葉を、
若い者がしっかりと受け止める素地がある。
そういう、協力体制のもとで成り立つ産業に従事していくと、
お隣さんも、足の悪いばあちゃんも、半人前の若造も、数少ない村の子どもも、
みんな『大事な人なのよ』っていう意識が、自然と培われていくのかな。

この作品の主人公は、都会育ちの今風の青年なんだけれど、
全く興味関心のない林業に従事する羽目になって、一旦は逃げ出そうとするものの、
この村での暮らしのなかで、何か大切なものを感じ取っていくんだよね。
それは、主人公の青年を通して読者である私も、共感的に感じ取れるんです。
本当に使い古された手垢まみれの言葉だけど、
『仲良し』って、人として生きていくうえでは、とっても大切なのだと
しみじみと考えさせてくれるのです。

余談になりますが、
作者、三浦しをんさんて、
あまり人が注目しないような職業に眼をむけるんだなあ。
『仏果を得ず』では、文楽の義太夫を、
『舟を編む』では、辞書の編集者を、
『まほろば多田便利軒』では、便利屋稼業を、
そして『神去なあなあ』では、林業を、
どの作品も、ちょっと変わってるけど人柄に好感を持てるような登場人物が出てきて、
なんか、やっぱり人間って見捨てたもんじゃないよねっていう気がしてくる。
「特別に秀でた人じゃなくったって、ええやんか・・・、なあ。」って隣に居る人とうなずき合いたくなるような
読後感があるんです。