番組開始当初からは聴いていないこの番組。実は5周年の東京国際フォーラムでは「初めから聴いていたかった」なんて悔しさの方が大きかったりしたのだけれど、いつしか「知らなかった期間」より、「聴いている期間」の方が長くなり、この日を迎えた。
チケット購入のために、販売開始時間にリロードボタンを連打したのは、何年振りだろう。
僕の好きな数多くのラジオ番組には、ラジオ番組の好きなところが詰まっており、それは限られた共通言語の通じる「極小の笑いの経済圏」とも言える、吹き抜けた閉塞感。「いつの間にか、住んでいた」。毎週ラジオを聴くとは、そういうものです。
自分にとってオードリーは、“特別な芸人”ではなかった。M-1という大舞台で羽を広げ、芸能界を羽ばたいていった「スター」。自分の目には、ただ芸人が“売れていく”といった現象として映っていたように思う。
2013年だ。
どの回からか、なぜこのタイミングだったのか。ラジオ番組を聴くきっかけというのは、はっきり思い出せないのが良いところであり、悔しいところでもある。少なくとも、初めてメガネのツルの話をした回を、僕は聴けていないだろう。でも、そう考えると、6年もこのラジオを聴いているのか。
「内輪ウケを本気でやりに来ていますから」
今回、一二を争う、最高の言葉だったと思う。
それにしても、大きな輪だ。
武道館イベント、個人的にとてもラジオ的だなぁ〜と思ったのは、10周年という「総決算の場」として機能していたにもかかわらず、トークやコーナー、ゲストなど、内容の多くが「最近の出来事」に基づいているところ。
「エミール」のくだりや、狙女の登場、松本明子さんとのキスや梅澤さんへのケツバット。どれも、ここ一年、ここ数ヶ月ラジオを聴いていれば楽しめた内容だったでしょう。
ただ、これは「最近聴き始めた人にも優しい内容にしていた」ということでも無い。そもそも、ラジオこそが、元々そういうものなのだ。
毎週自分たちの「今」の話を更新し続ける。そこに定番や老舗コーナーはあれど、根本には「芸人人生の変遷」、その変化の中心が垣間見える時間として、番組がある。
まるでホームビデオを遡るような、番組の歴史をたどるVTRには、オードリーの「数多の今」が記録されていた。
そして、10周年を迎え、武道館という大舞台を用意されてもなお、ここで2人が見せるのは絶え間なく続く「今」の総決算としての自分。そして「過去」を織り上げて作られた、「未来」を感じさせる怒涛の30分漫才。
「やってきたこと」ではなく、「しでかす今」を焼き付ける。切っては捨て、切っては捨て、その鋭い付け焼き刃で、私の心にはその形の溝ができてしまったような。
「命尽きるまでだよ!」
10年、20年。
「軌跡」ではなく、「これからの道」の方に、遥かな時間を感じさせられたライブでした。
「そんなこと思ってたら、お前と武道館で30分漫才やってらんねぇよ」
「またまた〜」と思いました。
「30分?10分でしょ?」と。
体感ではそんなもん。
一番楽しい「今」が、
一番速く過ぎ去っていきますね。