周りの人から笑われる君へ | 梯子ダルマ オフィシャろうブログ

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ラジオネーム:梯子ダルマとして深夜ラジオにメールを送っていた、現在放送作家として働く26歳の男が書くブログです。

思ったことを書いて、賛同・誹謗中傷などの反応がきて、コメントがきっかけで会話をしたり、そんな交流が嬉しいです。

無神経・理不尽に我慢するより、キッパリNOを突きつけて人付き合いを一つ減らす方がいいが、そんな勇気もなく、ヘラヘラと自分を切り売りしつつも、心底の反発心が僕の表情筋を固めるので、ヘラヘラもしきれず、「なんかノリ悪い」みたいになって結局惨め。揚げ足とる運転免許試験みたいな社会。古いよ、古い。





「楽しいこと」のアップデートが止まってる人が多い気がします。例えばだけど、少なくとも「貧乏な人を笑う」ことに100%の正義はないじゃないですか。「笑って欲しい人」「笑いにできる人」がメディアとかで目立つだけで。100%じゃない。自分の物差しで「笑える貧乏」に仕立て上げちゃダメ。生きがいのプラモデルコレクションを売った人かもしれない。痔の治療に全額叩いた人かもしれない。そして、プラモデルが好きな大人も、痔と闘う人も、やっぱり100%笑っていいわけじゃない。





「眼鏡をかけてるからガリ勉」「眼鏡だから真面目」とかも、やっぱり扱いとしてはほぼ100%であるあるになってるかもしれないけど、言っちゃえば「視力の障害」な訳で。本人が「眼鏡をかけること」をどう思ってるか。そこを想像する余地がない、短絡的な人が多いんです。





自分にとっての“汚点”を面白さに昇華できる人は、偉いし凄いけど“正解”ではないよ。その人のやり方ってだけ。



“傷付く権利”も、“忘れる権利”もあるんだから。何でもかんでも武器にしなくていいんだよ。痛かったら。




「他人が自分の短所を長所にした」

って、一見良い話だけど

「他人が自分の短所を(あたかも)長所(のよう)にした」

これって一方的で、避けようがなく、とてつもない理不尽と偏見で、もう脳みそがいっぱいになる。苦しい。





「君の立場ではこうするのがベスト」と言われましても、「こうしたくない」という“私”がいる時点で、それはもうベストじゃないよね。どれだけ社会が滑らかに回ろうとも、どれだけ大金が手に入ろうとも、「なので、そのために腕を切り落として」と言われて、同意しないのと同じではないのか。あなたの、誰かの、口から発して1秒にも満たないような“冗談”が、誰かの心を切り落としてる、なんてこともあるわけですよ。






尊厳を捨てて周囲にバカにされることが「ベスト」と言われるならば、道化になって“目上の人”の暇つぶしになることが「ベスト」と言われるならば、苦しさを見て見ぬ振りして、自分の“嫌なところ”を表舞台に引っ張り上げられるならば、もう僕は、別の仕事を探しますけどね。あなたは一ミリも悪くないけど、周りの大人はそう簡単に変わりません。





「笑う」「笑われる」「笑わす」「笑わされる」全部全然違うから、それを全部【楽しいから良いじゃん】のフォルダに一括保存しちゃう感覚は、マジで古いというか、時代にそぐわないです。






「マスに受けるモノを発信すること」には類稀なる才能と努力、観察力が必要で、自分の周りの仕事ができる人は全部振り切れてる。才能があるのに、努力と継続を惜しまない。でも「自分の思考をマスの判断基準に合わせる」のは危険だし、それは全く別の話。「みんな笑うから良いでしょ」なんてさ、通用しない。






「だって俺のところまで連絡きてないもん」と価値観のアップデートを怠っている人たちが、少なからず社会にいます。彼らは自分で圏外のところに突っ立ってるだけです。気にせず、僕たちは歩いて行きましょう。