M-1楽しかった~。
毎年「全組面白かった!」とは言うものの、結構それもウソだったりして、やっぱり好みの問題で「まぁまぁ、そこまで…」というコンビもいたりした。けど、まぁ~~今年は。ずっと笑ってた。
銀シャリさんが「ベルリンの?!」で客をガッと掴んだ時に、思い出したこと。
9月29日の新宿バティオスにて、ノオト主催のネタライブ「鳴る、エンジン」を観ました。これも本当に面白かった。
そんな中でのトラウマな瞬間。
シルキーラインというコンビの漫才でした。その掴みを、僕がぶち壊した。
「ぶち壊した」とまで言っちゃうとさすがにネガティヴの自信過剰なのですが、まぁでも、僕が潰しちゃったかな。
登場
↓
ボケが意味不明の発言
↓
間がポツン
↓
ボケが弁解&相方ツッコむ
みたいな流れだったのかな。もうショックであんまりちゃんと覚えてないんですけど。
とにかく、確実に笑いのピークがツッコミに来るような感じだったんですよね。
ただ、そこで僕が「間がポツン」の時に、1人声を出して笑ってしまった。
彼らにとっては「…は?」という観客の理解不能を想定した間だったと思うんですけど、僕はその前の「意味不明さ」がどうしても面白くって。
全然内容は違うんですけど、例えば
「あの~この前義理の父であるサーベルタイガーおじさんが、見たこともない金色の歯磨き粉持って、保田圭の前後左右を行ったり来たりしてたんですよ」みたいな。もう頭オカシイ文章で、ツボに入っちゃった。
でも僕の笑い声がちょっとフライングで響いたせいで、ツッコミの時になんだかウケがフワフワしてしまった。本当に申し訳なく思っています。そんなの関係なく、漫才自体はめちゃくちゃ面白かったんですけどね。最初だけ、僕にとっては後悔・反省。
朝井リョウさんがラジオでたまに「客としての責任の大きさ」みたいな話をしていて、とても共感する。バンドでもお笑いでも、客数の少ないライブにおいては一人ひとりが担う責任?というとちょっと違うか。存在感。存在感が大きい。さいたまスーパーアリーナと新宿バティオスでは、客一人ひとりの持つ意味や在り方が異なります。
「責任を感じて嫌だなぁ」という話ではなく、もちろん距離の近さを含めて数え切れないメリットがあります。
ただやっぱり100%の無個性な客にはなりきれない。「一緒に盛り上がろう」の共同作業です。人見知りな僕は、できればライブ会場でも「こっそり遠目から見てる」ぐらいの、“舞台と自分との関係のなさ”で自分を守りたい。実際にバンドのライブとか行くと「前で跳ねた方が楽しいな」と気付いて、人差し指突き立ててたりしてるのですが。
空気を読む能力が高いと、余計にそうかも。自分がそうだと言うわけではないですよ。でも空気をしっかり読める人の方が、理想的な客としての自分とか、理想的な観客席の雰囲気とか、考えてしまうと思う。
多分芸人さんにとっては、ありがたくもあり、鬱陶しくもある。「僕らのことを考えてくれてありがとうございます」と言う人もいるだろうし、「客はただ面白い時に笑ってくれればいいんだよ」という人もいる。「でしゃばるな素人」と。「何を“わかってますヅラ”してるんだ」と。「余計なお世話だ」と。「お前みたいなのが一番厄介な客だわ」と。「帰れ、評論家気取りが」と。すみませんちょっと泣きそうです。
でも、その共同作業感こそ、ライブの、生の醍醐味だと思います。一人ひとりの責任感とかは異なるかもしれないけど、やることはバティオスでも東京ドームでも同じです。楽しませる人と、楽しみに来てる人とのコール&レスポンス。関係性が常にそこにある。
演劇でも音楽ライブでもお笑いライブでもミュージカルでも、やっぱりドンドン行った方がいいな。よく「生で見ると全然違うよ!」と言われる。よく言われますよね。でも「あっそ」で済ませます。僕も、多分ほとんどの人が。「ユーチューブっちゅうのがあるんやから、これでええねん」と。「効率もええぞ」と。でもこれ、本当に違います。生は。多分これを読んでいただいた方のほとんどは「そんなの知ってるよ」と、生の魅力に気付いていると思います。というか、僕がそもそもまだちゃんと分かっていない。でも何人かは、「ライブなんて高いし、生で見ても変わらないでしょ?」と思っている人もいるはず。その内2人、いや1人でも、この文章で説得できたら嬉しい。「ちょっと近くの劇場調べてみよう」と。「迷ってたけど行ってみようかな」が、一つでも起これば。
まるで自分に言い聞かせるような文章です。もっと色々と生で、この肉眼で、見なくては。スマホだけで終わらせず、一回足を運んでみる。せっかくの、ただただ楽しいだけの娯楽。自分の記憶・体験にしていきましょう。きっと宝物になります。