思ったことをブログやらtwitterやらで書いていて、人から反応があると嬉しい。「面白いです」とか、「共感します」とか。中でも一番嬉しいのは「僕はこう思いました」「それには賛同いたしかねます。何故なら…」という感想。僕の文章が他人の思考の火種となった瞬間だからです。後半を読んでいる頃には前半の内容を忘れている…そんな読み方ではあまり意味がない。翌日でなくていい、せめて5分後、10分後にまだ内容を思い出せるような、読者に考えを巡らせるような文章が書けるといいです。「意味があった」と思えます。
僕は「エッセイが売れる人」になりたい。「生き方や考え方が商品になるから」でしょうか?どうかな。
1円でも値段がつくということは、そこには責任も価値も、存在します。自分の言葉や経験が、売り物になる。エッセイを書くというのは、例えて言うならば「自分を質に入れる」ようなものです。…「自分を質に入れる」という言葉触りが良いから使っただけで、的確な表現ではないかも。
僕個人に限った話で言えば、あまり人から認められてこなかったからこそ、自分の想いを書いた文章がある程度の数の人々に支持されるようなものであれば、社会人として認められたような気持ちになる、のです。
「たくさんの人が支持したものイコール、価値のあるものなのか?!」と、揚げ足取りの皆さんなら思うかもしれませんが、今言っているのはそもそも「たくさん人に支持される、ということ自体の価値」の話。経済的、歴史的、文学的価値などではなく。「エッセイが“売れる”人」と書いたのも「それにお金を出す人がいる」という意味で、「エッセイでお金を稼ぎたい」訳ではないです。ない…です。
「この世に居なくてもいい人間なんていない!!」
と、鼻の痒くなるような言葉がドラマや映画で散見されますが、確かにそうだと思います。そして同じように「この世にエッセイが面白くない人間なんていない!」と、言ってやりたい。
きっと誰だってエッセイを書ける。まぁ、僕は「エッセイを書こう!」と思って書いたことはないんですが…
【エッセイ】とは「形式にとらわれず,個人的観点から物事を論じた散文。また,意の趣くままに感想・見聞などをまとめた文章」
らしい。難しい説明だが、要は書きたいものを書けばいい。日記でいい。数行でいい。
例えば24時間の内にたった1秒でも、何か頭を使ってアイデアを考えたならば、その種を何ページにだって文章に、花に変えられるはず。
「いま捨てたペットボトルは、これからどこに行くんだろう?」と一瞬でも考えればいい。どんどんどんどん環境問題を掘り下げてもいいし、発展・連想で「あの日いろはすで間接キスを交わした彼女は…」と関係のない恋愛話をしてもいい。いつも粗雑に“思う”ように、そのまま“書く”だけ。頭の垂れ流し。こんな文章も、わざわざ下書きなんてしない。
エッセイが売れる人って、なんだろう。きっと「面白い人」。ファニーというよりインタレスティング。生き方が魅力的で、切り口が個性的。文章が上手いだけじゃダメ。自分の色がある人。人と似ていない人。自分の長所をよく理解している人。未体験のものに挑戦する人。変化を求める人。何かに陶酔している人。知識のある人。
これは例えば芸人さんとかタレントさんとか、芸能界で生きる人に限った話ではなく。学生でも、サラリーマンでも、主婦でも、どんな環境でも、「書いたエッセイが売れる」ような生き方をしている人は周りから興味を持たれるし、人生も充実する。している。していく。はず。
いかに自分の置かれた状況を、自分の思ったことを、 自分を、演出・企画・プレゼンするか。アイドル番組的に、自分自身を最大限に活かす番組を作るような感覚?強烈な主観で生きて、トリッキーな客観で切り取る。ありえない人生を、ありきたりな顔して語る。ありきたりな人生を、離れたところから逆立ちして観察する。
最近、日々「個性」をカツアゲされるような環境にいるけれど、今まで「出来るだけ目立たないように」をモットーとしていた自分にとってはなかなか難しい。「あぁ、思ったよりも自分には何もないな」と痛感する。
「何かになる」方が、いくらか簡単。
「自分である」って、本当に大変だ。
僕は「エッセイが売れる人」になりたい。