どこからか声がする。

 

「1000年前。・・・・イルカは人だった」

そして私は目を覚まし、その言葉を口にする。

「1000年前・・・」

「1000年前?」寝袋にくるまって眠っていた兵士も目を覚まし、隣で繰り返す。

「1000年前がどうした?」

「イルカになってしまった」

「イルカか?地中海に行けば出迎えてくれるさ。ムニャムニャ。おお、見ろよ、厚い雲がみるみる流れて行くではないか。秋の天気は変わりやすいからな。イルカ星なら、わし座アルタイルを目印に少し上、ちっさい星座だ。こうしてしっかり頭を地面に乗せると、全天の星座が見られるな。おー、感嘆するわ、まばゆいまばゆい。あまりの美しさにすっかり目が覚めてしまったぞ。おや、君はそれどころではないってわけか?どうしたん?夢にでもうなされたのかな?そんなら一杯やらないか?」

「下戸なんだ」

「おお、残念。一人で飲ましてもらうわ」

 

雨雲は、水に渇いた我々一行の期待を裏切って、大陸特有の天空の暴風にさらわれて行ってしまった。2、3日前から分厚い雨雲が広がって来てはいたもののついに一雫も落とさずに、もうはるか彼方へと雲は消え去りゆく。砂漠でなければ、そのほうが都合がよい時もあった。もしもあのまま村が残っていたなら、今ごろは収穫期だったんだ。今年は悪くない、庭の一隅に果樹園を作ろうと思っていたのに。そうやって考え事をしていると、恨みつらみがコブシを回して節をつける。

上空で風が唸っている。海神ポセイドンの咆哮だ。イルカ星は、西方を見渡すと地平線からやや上、今まさに砂漠の海から砂を蹴り飛び出して来たかのように見える。そうだ、おまえは、あの悪賢い荒くれポセイドンの御使だったんだ。

 

「そういやあ、名前を聞いてなかったな。俺、エスファハーン。君の名は・・・?」

兵士が尋ねた。

 

「何を言いたいんだ!?誰も知らないと思ってるんだな。誰一人、気がついてないと思ってるな。1000年前・・・・・イルカは人だった。あの時、蛍が飛んだのさ。泊の発電所から」

再び声が聞こえた。

 

「泊の発電所?」

どこのことだろう?何のことだろう?

「トマリノハツデンショ?変わった名前だなあ。よろしくな、トマリノハツデンショ。1000年前といやあ、・・・なあ、聞いてるか?・・・トマリノハツデンショ、アッシリア王ティグラト・ピレセル三世、アッシュルバニパル、バビロニア王ナボポラサル、ナボニドス、リュディア王ギュゲス、アリュアッテス・・・アケメネス朝ティスペス、キュロス一世、カンビュセス一世、キュロス二世、・・・・・ムニャムニャ・・・・カンビュセス二世、ダレイオス一世、クセルクセス一世・・・ダレイオス二世、アルタクセルクセス、・・・アルタクセルクセス、アルタクセルクセス、・・・ダレイオス・・・・ムニャムニャ、野蛮人め。ムニャムニャ・・・・」

 

 

老人クラブ一行は、一点の曇りない紺碧の空の下、先頭から約16キロメートルほど離れたところをとぼとぼ歩いている。一列縦隊の後ろから2番目のグループ。最後尾チルドレンは、腹を空かせたガキども。

「ガキとは失敬な」うち年長の子供の一人は、文句を言いたそうにするが、生粋の遊牧民気質なのか疲れ知らずで気丈夫、長い行脚に怯えさえ見せようとしない。腰を曲げて歩く最年長者のジジイを突っつき今にもコケさせてやろうと、そうしながらも介添の手を貸すときは貸す。からかいつつ遊びながら行軍について来る。

「若い子といっしょだと脳も若返るんだとよ、よいではないか」100歳のジジイに肩を貸す90歳のジジイ。

老人クラブは、実のところ歩き疲れた。もう、どこをどう歩いているのか、南を向いているのか西に向かっているのだかさっぱり分からなくなっていた。ともかく、先へと進む先頭が歩みを止めないのなら、こちらも足を休めるわけにはいかないのだ。脱落は死だ。

砂塵に吹きさらされた枯れ草木が、ときおり目に入る。古代、このあたりに人間が住むなんてことが、果たしてあったのだろうか?それとも、名の知れぬ遊牧の民などは、一度くらい通り過ぎただろうか?そんな数千年にわたる古い時代、火山爆発で吹き飛ばされた大小さまざまの岩石が、砂漠一帯にあめあられと降り注ぎ堆積したのだろう。

砂埃が風に舞うなかを、ごろごろの岩と灌木のあいだを縫うように、時として巨岩を迂回し一歩一歩、歩かねばならなかった。足の裏がタコとウオノメだらけになった。道なき道とはいえ、これまでも大勢が切り傷すり傷で残していった血の足跡が、道に迷わせることをさせなかった。

「レッドカーペットじゃーん」

強気が失せない90歳のジジイ、ヒカチョケンリツツセセリ※1 は言うのだった。

 

塩湖に沿う道の突端にやって来たと思しき、風向きが変わるのが感じられた。まだまだ砂漠かあ。イグアナか、ウサギでも捕まえておかなければ。それと水の確保だ。

「塩水蒸気回収法でいくか?いや、井戸があるはずだ、遠くないどこかに人の気配がする」飯炊き人は、ひとりごとを言った。

飯炊き人には、先見の明がある。他の連中と同じくらいクタクタであっても、意識を鮮明にして、常に先を読まずにはいられない。性分ともいえる。飯炊き部門の長である72歳の若いババアは、皆から、メシヤと呼ばれた。

 

死に物狂いで歩く100歳のジジイ、アブラシームは、一貫して無口であったのだが今際の際の閃光が走ったか、突如、疑心にかられる。「この軍隊ってのは、よー?何人いるんだ?」

老人クラブ一同は、ハッと歩みを止めた。

アブラシームの呼吸が乱れている。

 

「数えきれないほどたくさんの人間が行進しているのが見える。何人いるのだか教えてくれ、ヒカチョケンリツツセセリ」

「なぜ、見えるんだ?おまえの心は空飛ぶ鳥の眼にでもなってしまったのか?アブラシーム」

「長い長いヘビがうねるように、大勢の人間が行進している。こんなにたくさんの人間を見たことがない、数えられない、うわうわ」

「その人々は集まって来ているのか?それとも列をなしているのか?」

「真珠の首飾りのように一列だ、鎖のように一列だ」

「恐れることはないぞ、死ぬのはまだ早い!百寿の祝いをしたばかりじゃないか我が友アブラシームよ、しっかりしろ」

「うわうわ」

「しっかりしろ!はちみつ入りレモン水だ、これを飲めアブラシーム」

「ゴクゴクゴク、ああ、数えられない。無念だ」

「数えなくていい、頭を休めるんだ。おお、神よ我らがアブラシームを救いたまえ、魂を救いたまえ」

長いこと立ち止まったままでいた。

友を腕に抱き、老人クラブ一同は、別れの覚悟を決めて皆が涙した。

 

そこへ、歩みをせかそうと、ひとりの兵士が馬を駆って老人クラブの元へとやって来た。今のところ、老人クラブに脱落者はいない。

未だかつて見たことのない、このような強固な紐帯は一体なんなのだ?兵士には、老人クラブのそれが謎だった。

兵士は、アブラシームを囲み祈りをあげ始めた老人達、周りにチルドレン、やがて他の村落の人々部族集団が集まり、幾重にもなって取り囲むなかへと割って入ってゆかねばならなかった。

「ペルシア兵よ、兵士は何人いるのだ?」ヒカチョケンリツツセセリが訊ねた。

それは兵士にとって予期せぬ問いだった。

兵士は馬上から老人クラブを見下ろし、とっさに腕を大袈裟に広げて見せた。

「おおお!」アブラシームが驚きの声を上げると、つられたその他大勢が「おお・・・」とどよめく。

「数多ジジババの命の火が消えても、神である王の火は燃え尽きはせぬ、永遠に」

兵士は吹きさす砂にやられた赤い目で、言う。

「チッ!何人なんだよ!?」ムカっとして詰め寄るヒカチョケンリツツセセリ。

自分の腕だけでは、さも足りなさそうにして、兵士は、集まる人々に手と手を繋ぐよう促すのだった。

「だから、何人なんだよ?馬鹿にしやがる、おまえらただの盗賊じゃねえのかよ?ふざけやがって!何人だ?この部隊は?言ってみ」干からびた口元から、泡だった唾液がほとばしる。

「落ち着け、子供の前だ。みっともない真似をしちゃいかん」77歳のジジイが制する。

子供達は、一人前の兵士のように凛として、喧騒を見守るのだった。

「こうして連行されてしまったのも何かの縁。穏やかに話し合って、現状を共有しようではないか?ペルシアの若者よ」

「現状?ほとんど足手まといになっているぞ。兵役に志願したのは、そっちじゃないのか。うちらは、食い物をよこせと襲撃しただけだ。そこへ交渉を持ちかけて来たのだから、うちらとしては妥協してやったようなものだ。おまけに、てめーらときたら老人と子供だけだ。兵役に就くなんて、とてもじゃないが対象枠から外れているしな。どうやってこき使ったろーか何を考えたか知らんが、大将は甘い。俺から見ると大将は実に甘い。苺のように甘い。だからこそ尊敬もされているのだがな」

「ペルシア兵は馬で移動できるが、我々は徒歩だ」

「だから馬にもゆっくり歩かせている。慈悲深いだろうが。言っとくがな、神殿に御座しますサーサーン王よりもうちら部隊の大将のほうが、名峰ザルデ山よりもはるかに気高い心を持っておられる」

「大工のサーサン?サーサンは王だったのか?」

「サーサーンだ。諸王の王ってえやつだ」

「だから、大工のサーサンが王なのかと聞いている」

「サーサーンだ」

「話を元に戻そう。我が友であるアブラシームは今や瀕死の状態だ。そこで、アブラシームは、ここ我々における全貌、つまり現在地を知りたがっている。そういうことだな?アブラシーム?」

「ワシは死なぬ」

抱き抱えられながら手をひらひらさせて応えるアブラシーム。

「そうか、それにしてもだ」

77歳ジジイは、いったん呼吸を整えた。

「瀕死の人間が願っているのは物事の全体だ」

「死なぬのだっつの」

アブラシームも呼吸を整え呟くと、ヒカチョケンリツツセセリは、懐で支える腕にぎゅっと力を込めた。

 

「さよか」と、ヒカチョケンリツツセセリが言う、

「はいな」※2 と、アブラシームは応える。

 

しっかり目を見交わす二人。我ら朋友に幸あれかしと、老人達は、真の友愛の姿に再び涙した。

77歳ジジイはペルシア兵に向き直り言った。

「さて、王がどこぞの人間かはこれで分かった。しかし、若者よ、君はこの部隊であれペルシア全軍の陣営であれ、全体というものを知っているのかな?アブラシームが見た、一列に長々と隊列を組む部隊の人数くらい知っているだろう?その中に我々もいるのだろうから、まずは説明してもらえないかね?」

「全体?そんなこと知ったからって何になる?意味のないことだ」

「ほー。そうすると、君にも意味はないということだ。覚えておこう、君は無意味なんだな。全体が無意味に埋め尽くされたなら、君だけではなく私も無意味だということを認めることになるだろうな。だけど、無意味なのは今は君一人だ」

「くっそ生意気なジジイだ!!名誉ある死をおまえにくれてやろう、さあ、名を名のれ!てめーブッ・・・」たギッてやる!と、ペルシア兵が剣を抜いたその時、77歳ジジイがあっと驚く一声を発したのだった。その声は、あたり一帯に雷鳴の如く轟き渡り、群衆が一斉に、ブルース・リーが繰り出すワン・イン・パンチを喰らったかのように尻もちをつき、ペルシア兵は落馬し気絶した。

「はいっ!その名は、そして、君の名は!?」※3

まさに晴天の霹靂であった。

 

朗々とした見事なまでの一本調子、アクセントがどこにもなく、わずかに句読点らしき間がときおり知れるのみ。驚嘆の滑舌は踊る刺身をもてあそぶかのよう、人々には未知の外国語のように聞こえたのだった。これが名前なのか?どこからどこまでが名前なんだ?こんなに長い名前とは、もしや何処の王なのか?いや、そうじゃない、禍々しいことを言っているに違いない、異教の悪神アーリマンが顕現したのだ!ああ、災いだ、恐ろしや恐ろしや、あな恐ろしや!人々は震え慄き観念した。そして、その渾身の気迫である口上は、真っ直ぐ胸に響いたのだった。まるで自動体外式除細動器のように。

「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは三重の片田舎、ガキの頃からやさぐれて十四の時には腹にドスを飲み、ヤクザのドンに一振り浴びせ、踏み込んだ足も泥沼の底に届かぬ沼田から深川へ抜け出すこともままならず、身の生業も闘殴や放火の未遂と数多く、財物牙保なら朝飯前、樺戸からの脱獄も一度や二度でおさまらぬ、強盗、強姦、暇つぶし、重なる悪事の合間では、泥炭起こす百姓どもに情けをタップリかけ蕎麦で、義賊と噂も高きいぃぃ。神出鬼没の蝦夷無宿、吹雪を走ったその名さえ、五寸釘寅吉たあ俺のおぉことだあ!!」※3

ゴスンクギトラキチ、かつての村人仲間は、それから取り巻く群衆もこの時初めて77歳ジジイの名を知ったのだった。時々アーリマン、時々知者ゴスンクギトラキチは、電気のようなショックを与えることで人々を若返らせ、恐れられながらも固く信頼されることとなった。

 

日暮れ近かった。

一命を取り留めたアブラシームと、放心したままのペルシア兵は、馬の背の左右にそれぞれ寝袋に包まれて結えられ、運ばれて行脚を共にし続けていた。昼の騒乱の熱気は消え失せ、老人も子供も、いつものように徒歩に耐えていた。

夕暮れはいつも無口にならざるをえない。

「ペルシアの若者よ、おまえが数を数えられるようになるまで、ワシは死なぬ」馬の腹越しにアブラシームは話しかけるのだが、ペルシア兵は、無言だった。

 

(つづく)

 

 

※1 ヒカチョケンリツツセセリは、『天球儀公園のドッヂボール』登場人物全員が、捕虫網を持って探し追い求める幻の蝶の名前。作家の創作と思われる。セセリチョウは研究対象としては地味であるらしく、学名のついていない種が多い。実際のセセリチョウ科チャバネセセリの幼虫は、稲を食べる害虫と見なされることもある。北海道で見られる長い名前のセセリチョウは、カラフトタカネキマダラセセリ。アポイ岳周辺に生息するヒメチャマダラセセリは、絶滅危惧種に指定されている。分類学上、蝶と蛾の区別はないのだが、セセリは蝶と蛾の中間といわれている。

 

※2 『無人の涯』より引用

 

※3『魔弾の射手ー囚人街道樺戸編』より引用

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年投稿の「1 . 時間についてのシュミレーションを試みる(序 その5)」によって、セリフにもある、「1000年前」というキーワードを、ここであらためて考えてみたいと思った。

論文専門家AIチャットbotに改善点を指摘してもらおうと、3500字足らずをたびたび投稿していたのだが、ついに、フリーズしてしまったので、「1000年の時を考えるということが、どういうことになるのか問題」として、生成AIと並んで試験的に、こちらのブログに献上することにした。(中世人になりました。)

 

 

1000年間という長い時間を、創造的にイメージしてみたいと思う。

たとえば、1000年前のどこかにいた自分が、その後を1000年もの期間を生きたとすると、

思考は時間をどのように経験し、自分にどんなリアリティをもたらすのだろう。それとか、

1000年前、今の自分がそこにいるのだとしたら、出来事は自分を変えてしまうのだろうか?

と、思考の一元性の中で、歴史を見つめてみる。

歴史を学ぶ際の、論理展開とも趣きは異なるだろうから、それら想像と創作のイメージとイマジネーションに困惑すれども、合理的に腑分けするのは、身を持って体験する自分自身には難しいことになるだろうか、と思う。

どこかに、相剋が現れて来やしないか?と思う。

 

過去の史実による時代情勢を取り上げて、想像をめぐらせてみると、歴史の授業にあるような年月日に立ち会うことだけではなく、史実と史実の間にある見えない関係、史実に残されなかった関係に、ふと想いを寄せることもあるだろうか。

「創造的」というのは、そこを自分自身の経験とすることだと考える。

 

年代の区切り、たとえば、紀元313年を私の生まれた年として考えてみる。

私は、日本語しか話せないのに、なぜだか意思の疎通には不自由がない。そこで、ヨーロッパの中世時代を取り上げてみる。

 

313年は、コンスタンティヌス1世の勅令によって、キリスト教がローマ帝国国教と公認された年である。

かつて、歴代ローマ皇帝は、キリスト教徒を迫害し続けた。異教に甘い皇帝も中にはいたが、信徒は凄惨な暴力によって排除され、根絶やしされようとした。独裁的な権力者の躍起になる姿は、現代に受け継がれる独裁者の精神構造そのままの姿といえる。

 

395年、ローマ帝国分裂となるのを契機とし、またその年の前後からは、じわじわと、あるいは突如として、フン族のヨーロッパ侵攻、ゲルマン人の移動など、多種多様な諸民族が、こぞって大陸を縦横無尽に横断しまくる大異変が始まっていた。

東ローマ帝国首都コンスタンチノープルを求心力にして、諸国は興亡をかけて、その動機は天啓だったのか、それともやむにやまれぬ変心を身に受けたためなのか、謎のまま「大移動」に着手し、行く先々で強奪や侵略、攻防戦を繰り広げる。そうした、領土略奪戦線は、バルカン半島からスカンジナビア半島へ、東欧平原地帯、地中海周辺だけではなく、大西洋沿岸すみずみにまで及ぶ。この騒乱の時代幕開けから、以来東ローマ帝国は1000年間もの長いあいだ、帝国として君臨し続けたのだ。

 

東西分裂の年、私はそうすると、82歳になる。

先祖代々、キリスト教徒だったとする。

先祖は、キリスト教精神に則って、精力的に布教活動をしたものと思う。物理的な民族大移動とは違って、人から人へ、心から心へと羽のように伝播してゆく、そのスピード感。スピリチュアルには、障壁も境界線もないのだった。

村落の領主や時のローマ皇帝は、そのスピード感に、真の恐れを持ったのかもしれない。

 その頃には、なんぴとも無宗教というのはあり得ない。すでに、三大宗教は出揃っていた(正確には、揃ったとは言えない。マホメットを開祖とするイスラム教成立とされているのは、イスラム紀元元年である622年。仏教は、ゴータマ・シッダルータが説法を始めたのが元祖で、おおよそ紀元前6世紀とされている。)のだから、民衆としては、概ね、ギリシャ神話にあるゼウスとかポセイドンを拝む多神教派か、ユダヤ教教徒。そして、さまざま異端も派生していたキリスト教徒であったはずだ。 私の一家は、ローマ帝国領のどこか一端の僻地で、牧畜と農耕に従事し、ほそぼそと命を食いつないで生き延びてきた生活が想像されてしまう。

生活圏を想定した場合、域内である村落共同体は、つながりが決して強いとはいえない。

家と家とが離れ過ぎている。距離にして、歩いて半日分といった隣家がぽつりぽつりと点在するのみだ。

 私たちは、経済的には、当時の民衆として、平均的貧困層の部類だっただろうか。

ある意味、いつなんどき、一家は、陸の孤島化、社会性の遮断と孤絶に見舞われないとはいえない。極限状況とはいえないまでも、心理的には危険水域であったに違いないと思う。

 

私は、天から降ってくる雪のひとひらのように、降ったり湧いたりして生まれて来たわけではないので、とにかく、生まれる以前のことも想定しなければならなくなる。

 

4〜5世紀頃は、地主、小作人、奴隷などの身分、戸籍、領地や領土区分にまつわる制度などが、相互関係にある共同体相応に確立していたとはいえ、記録に残されていないことの方が、断然多いはずだ。同様に、無分別であり、不分明であることによって置いておかれる余地もまた多かったのではないかと、そこの自由度に想いをはせることができる。

先祖代々、食べていくことだけで精一杯だったとしても、とにかく生き延び続けていた。

 

どこからか徒歩でやって来る旅人から、蛮族の襲来、戦乱の状況を知らされることがあっただろう。

どこの民族集団なのか、見知らぬ一人の伝令がやって来て、徴兵のために、村人の大半がかっさらわれた話を聞いたとする。そうした村では、人手が足りなくなり、飼っていた羊は飢えるか、野生化するなどして、あっという間に耕作地は荒れ果てて、その村は消滅するのだ。奴隷として連れさられるか、村と共に死ぬ覚悟を決めるか。それとも、蛮族の手を逃れて森の中で獣人として生きてゆくのか。戦々恐々として耳を傾ける村人たち。

夏が過ぎ、秋になる。

この時代、男女同権はありえないが、そんな区別はもともとが暴力的な区別なのだから、無視することにする。食物を得るためには、老若男女は働きに出ないとならない。

今、手っ取り早いのは、兵隊に志願することだ。生まれてこのかた目にしたことのない金貨を数枚、何の役に立つのか当然わからないのに、ペルシア人から受け取る。スラブ人から、金貨を受け取った村人もいた。蛮族両雄が共々コンスタンチノープルを目指すのだそうだ。

そういうわけで、私たち一家は村を出ることにした。さいわいにして、その決断は家族離散とはならなかった。 

 

言語が通じる通じないだのは、二の次だ。二の次とすると、なんとなく意思は通じるものだ。

首領にとって、我々こそが二の次だったのか、道中、村落への襲撃に比べると、人使いはゆるいと感じる。私は、心に中で、くわばらくわばらと念じ続けていた。

 

「変わった言葉を使うようだが、あんた、ローマ人ではないのかね?」と声をかける、ゾロアスター教徒の若い兵士がいた。

「そうらしいんだが?」私が答えると、「あんた、自分の国を知らないのかい?」と、驚いた表情で言う。

「そんなこと、考えたことなんかねーよ」

「あんたみたいなのが増えたら、そりゃ国は滅ぶわな」

「何のこと言ってるんだか・・・?」

「あんた、自分がこれからどこに向かっているのか、分かってないんだな」

「金貨と交換して、志願兵になったんだ。それ以外は知らん。82歳なんだ、こんな過酷な行脚、ついて歩くだけでもうクタクタだ。それはそうと、村から駆り出されたのは、老人ばかりだろ?でも、不思議だろ?出生率も低いけど、死亡率も低いんだ。当然、老人ばかりになったんだ。まあ、統計が何を語っているかは、知っちゃいないが、我々はネズミじゃないってことだよな。ジロジロ見たって、つまり実験観察するつもりかどうか知らんけど、何も出て来やしないよ。君の首領にも言ってやりなさい。あんまり人をジロジロ見るもんじゃありませんてね」

「確かにな。あんたんとこの村ってのは不思議だ。いやいや、俺も首領に会ったことはない、名前も聞いてない。話変わるけどな、あんた、改宗する気はないかね?」

「そりゃあ・・・・。しかし、改宗だなんて、大それたことだ。うじすじょうよりも、おおごとになるぞ。気安く宗教勧誘になびくなんて、熱い信仰心を失わなかったご先祖が泣くぞえ。理屈じゃない。そもそも、宗教談義はごめんだな。南無阿弥陀仏・・・あ、間違えた」

「はっはっは、面白いやつだな。何の呪文か知らないが、気が合うのかもしれないな。ハグ」

「きゃっ、恥ずかしい」

「人生って会話に似ていると思わないか?」

「?」

「俺はそう思ってんだ」

若い兵士は、そういうと黙り込んで、しばし暗闇の中で遠くを見つめていた。日々、戦闘準備体制なので、夜中に火を炊くことはない。野営の生活に、目は驚くほど暗闇に慣れてはいたが、星が見えない曇りの日は、全くの闇だった。それでも、戦闘の狼煙が上がる明け方、光の中にいるよりも安全だった。アナグマやオオカミ、イノシシに出くわすのは、恐ろしさよりも食料確保のチャンスだった。闇に溶け込んでいる束の間、絶大な信頼感に満たされることがある。こんな文盲の田舎者に、神様より信じられるものがあるだろうか?私は、自問自答する。静まり返った闇に落ちていると、生きる意味が向こうからやって来るような気がする。

「向こうから?」

313年に私が生まれた日よりも、はるかに遠い彼方から。ひぃひー祖父さんが、磔刑にされた、それよりももっと遠い過去からかもしれない。親族の半分は、いわれのない罪を押し付けられて、火あぶりか石打ちの刑で命を失っている。15人兄妹のうち、半分は盗賊に襲われ、連れ去られ、消息は不明のままだ。残りの半分は、都会に出て行った。都で要職に就いた者がいると、噂に聞いた。

コンスタンチノープルに無事到着したなら、妹か弟を探し出してやろう。甥や姪がいるはずだ。イノシシ肉のベーコンを土産に。買収にもイノシシ肉を。

この旅は、ペルシャジュータンに乗って旅するヒッチハイクのようなものだ。

飢えないこと以上に最強で、他に生きる意味があるなんて考えられないだろ?やはり、闇に目を開けていると、自問が自答を誘う。

 

( 以上が、まずは、1500年前の私のイメージである。)

 

(つづく)

 

 

 

1987年から1989年の2年間、演技論的転回の最中に、役者鍛錬のために創作された台本、

『ガラスの海 砂の雨』の元になる台本は、いくつかのプロットに分割された断片的なアイデアノートそのままといえるかのようなセリフ群の台本だった。

橋本一兵個人の大学ノートに書かれたセリフは、その都度、近所のコンビニでさっと複数コピーされ、役者に配られる。そして立ち稽古に入ったのだろう。物語の始まりなのかそれとも終わりなのか、どこに挟まるシーンなのかは未知数のまま、プロットごとの稽古を繰り返ししていただろうかと想像する。未完の50枚ほどのコピー台本の続きは、有るのか無いのかは教えてもらえなかった。西山さんの引っ越し手伝いをしている時に、他にも当時のフリーペーパーなどと共に譲ってもらったのだ。「あげねーよ。」とは言ってなかった。

 

『天文サンダル』と仮タイトルがありその後に、安房直子『火影の夢』より、と記してある。

 

ある港町に小さなこっとう品店がありました。(『火影の夢』より)

『火影の夢』の書き出し。舞台で見た物語世界が別の空想味をおびて思い出される。現実に役者がこっとう品店に生きていたかの様に思えて来る。セリフには現れてこないが、役者にはセリフ世界とは別の、イマジネーションの体験があったことを、それも一気に空想させられて動揺させられる。どきどきしながら読み進むと、陸の石だたみの光景が浮かんでくる。小さな町、港町です。変だと思ったんですが、こういう事もあるんだなあと思うと(ほたるのセリフ)脳内のイメージは、岩内町がまるで地中海に面したどこかで、エビが美味そうな町に思えて来る。エメラルドグリーンの水がたゆたう。

 

「知ってますか、むかし、地中海だか、北海だかに大きな津波があって、海辺の町がひとつすっぽり海にのまれてしまったことがあるんです。外国じゃ、有名な話ですよ。伝説にまでなってます。なにしろ古い港町でしたからねえ。その町が、海にしずむときに、どういうわけか、あの娘だけ、海の魔物にひょいとたすけられて、死なずにすんだんだが、そのとき魔法にかけられて、こんな小さな姿になってしまったんだそうです。ちょうどその日、娘は自分のへやのストーブにあたって、やっぱりこんなふうにぬいものをしていたそうですよ。魔物は、娘を、そのストーブごと魔法にかけて、海の底にしずめてしまった。娘は、もう長いこと.......そう、かれこれ百年だか二百年だか、海の中で眠っていたのが、なにかのひょうしに水の上にすくいあげられて、ストーブが燃やされるときだけ、人の目に見えるんですよ。」(『火影の夢』より)

町にひょっこり現れた船員がこっとう品店の老人に話す。

 

「あの娘」が「ほたる」を行き来する。

「ほたる」は「あの娘」を行き来する。

「なんてことだ。」(『火影の夢』より)と老人が言うと「なんてことだ」と「熊」と私は驚く。

役者と劇団は、2年間もの間、海の底にいたのかもしれない。はたまたストーブの中にいたのかもしれない。心のあたたまるストーブの中から外へ、外から再びストーブの中へと行き来していたのだ。

『天文サンダル』にはこんなセリフがある。

千代  「ねえ、助けに来てくれたの?(深呼吸して)空気、空気よ。今、何時ですか、

     何年何月ですか、何曜日?今日はタンポポの日?イルカの日?マグロの日?

     ねえ、教えて。私たち、こうして虫や魚、動物を毎日数えてきました。ずうっ

     と前から」

そのとき、手と足がとてつもなく大きな男が現れる。イルカの声が響き渡る。顔はイルカに似ている。と、ト書き。『天文サンダル』では、イルカに会っていたのだった。まるで映画『LAMBラム』のラストシーンに出現する、異界の獣人バフォメットのようではないか、と想像する。

 

「すると船員は...(略)...、そして例の小さなストーブの小さなたき口を指でつまんで、「ちょっと、ためしてみましょうか。もう燃料は、ちゃんとはいっているんですから。」『(火影の夢』より)

『火影の夢』が『天文サンダル』へ、そして『ガラスの海 砂の雨』へ輻輳する。進化論になぞらえるなら、交叉と突然変異といたしたい。過ぎた過去は変わりはしないが。変わりはしない過去の出来事において何かが実現していたのを、証明できない。よくある事です。長い時間座っていて急に立ち上がると、頭がくらくらっとして、どこかに飛んでいく様な・・・それで、あわててノックしたら(ほたるのセリフ)。だが、今では皆が忘れてしまっただろう、澄川の小路一角にあったビル貸室の、仮の稽古場の薄暗さだけが浮かんでくる。

 

『天文サンダル』の熊は言う。「気をつけてほしいのは燃料。このストーブを買った時に、赤潮の巫女に幾度も念を押されたんだ。干した海藻と海の砂を半々に混ぜて使い・・・。」

パジャマ男「わかった」

熊    「言ってみな」

パジャマ男「干した海藻と海の砂を半々に混ぜて使う・・・」

と、くりかえしているうちに熊がいなくなる。(ト書き)

パジャマ男「おい、熊、旅に行くんじゃねえだろうな、風下にむかうんじゃないだろうな

      あんた、そこがどこか分かってるのかい、すぐ脱出せよ、すぐ脱出せよ」

 

芝居は、ここはどこなのか?と探し求める。

熊   「ここは?あそこ?」

『ガラスの海 砂の雨』はここはどこなのか?を、探し求め続ける。

 

老人は、魚のような目で、じっと男を見すえました。それから

「あんた、店をまちがえたんじゃないのかね?」と、言いました。「うちは質屋じゃないんだよ。」(『火影の夢』より)

『火影の夢』をモチーフにしたイメージ、劇の総体とも言い換え得るイメージを皆が、血となり肉となり骨身に染み渡らせて共有していたはずだ。

 

熊   「はあ、(ストーブを受け取る)海の香りがする。(じっくりと見て返そうと

           する)店を間違えましたよ。ここは質屋じゃないし。」

 

何が実現していたのか証明ができない。

音楽にたとえると、同じ曲を毎日のように聴いていても、ある日ある時、音符のたった一つが、そこだけがスタッカート(専門的に何と表現するのか知らないので間違っているかもしれない)だと気がついて、なぜだろう?スラーじゃなくてスタッカートなのは。2分音符じゃないってことなのかな?それは、センスというものか。脈動とか鼓動というもの。

こんなふうにして「世界」が実現する。当時、役者にとって、稽古時間はどんな時間だったのか?私にはひとつひとつの未完の「世界」、夢のような時間が想像されてくる。

 

ここで文脈の全く異なるところからの引用、書物から書物へと、飛ばし読みからの引用を試みたい。

等価性の秩序のなかでは、価値の異同を決定する尺度は、必要とはべつの性質のものである。....(略)....この尺度は外部から人間に課せられる。すなわちそれは、人間の時間と労力なのだ。(ミシェル・フーコー『言葉と物』より)

役者の時間と労力としてみると、稽古時間のその時、役者の時間と労力は、不可視なイマジネーションであった。

価値というものについて度外視しているつもりだったが、再々、価値とはなにか?と問いかけずにおれなくなるのだった。それは評価だと言ってしまうとそういうことにもなる。

役者は少なくとも、へこんでいる時でさえも、「自分だったらこうするのに・・・」と、他の役者の稽古を飽かずに見ているものだ。眼の前のイメージに甲乙をつけるのではなくて、くつ下よりも花束がよかったとか、季語はあったほうがよかったのではないか?とかではなくて。

稽古が進展する時、尺度が揺らぐ時というのは、白紙を前にする演出家や役者にとって、その時の起こりというのは意味不明な感触であり、「なんだかわからない」という感に直に訴える何か、不可視な、何かがある。そうなった場合、人間の身体はそのままブリコラージュであるかのよう、確かに、一個の作品の現出を待つことになる。イメージが、共有を要求されていたのではなくて、イマジネーションが要求されていたのだ。

 

表象に還元することのできぬ《労働》という要素である。自然のいち存在を特徴づけることを可能ならしめるのは、もはやその存在との表象にもとづいて分析しうるたぐいの要素ではなく、《組織》と呼ばれる、その存在の内部におけるある種の関係なのだ。(『言葉と物』より)

役者存在の内部の意識、潜在意識、前意識、無意識というものは、LGBTQであるのと同じようにグラデーションであり、役者は分析を断念させられるまで考えぬき、イマジネーションを喚起する。多様性に満ち、複雑になればなるほど、証明し難い「何か」とか「ある種」が増してゆく。

 

意識と潜在意識を分けてしまうのは分析的思考なのだと、或るスピリチュアルの専門家は言う。分析的思考を超えるとはどういうことか。スピリチュアル専門家に言わせると、感情と出来事による記憶をなん度もなん度も繰り返し思い出してルーティーン化することで、それが自分自身のプログラムになってしまうのだと言う。それが潜在意識プログラムになってしまうと、新しいことに出会った時には、過去の感情との葛藤のために不安や不快感が生じてしまう。そうすると過去の感情を繰り返し生きることになってしまう。(過去の感情と思考に支配されず、行き来する余裕があるのならいいのだろうけれど、と私は思う。)回路化した思考に支配されずに生きるにはどうすればよいか、ということを人々に説いている。

 

こうしたすべては、これ以後、もはや表象のそれ自体にたいする二重化のみに基礎をおくことはできなくなる。(『言葉と物』より)

ダブルバインドはやめたとして、自由度をどこかに隠しもつ二重化はやめるわけにはいかない。それでは、資本主義以外だったらなんでもいい、資本主義以外の三重化でいってみるか?ということではなくて、(ここで、書物から書物へと渡り歩く)

私たちに開かれている時間性がどのようなものであるのか、均質で成長する連続的な時間性に基づいて歴史性を理解するのか、それとも全く違う時間性概念に基づいて歴史性を把握するのかを鋭く問うている。もちろん、私たちがどちらを選ぶのかは言うまでもない。と、田崎英明は『間隙を思考する』(18章:資本主義の下でなぜこんなにも家族が問題になるのだろうか)で書いている。

それでは、と問うているのだろう。あなたの時間性は、何なのか?

時間性をあらためて問うてみることをできないほどに、現代は忙しいようだ。なんでこんなに速いの?と、たびたび思わせられる。速いスピードで踊るし、歌うし、身体能力には現在の時間性が体現されている。今やCGと見紛うほどの身体技術の進化が見られる。

 

舞台役者であったり、実人生の役者であったり、平凡な生活を主体とする市民を想定してみるにしても、「今や現代は、70億人、90億人の人々が70億90億個々それぞれの歴史を意識し始める・・・」というようなことを誰かが書いていた。

そういう時代に差し掛かったのだ。

全く違う時間性をもたらすのは、70億人90億人が持ち寄ることによってしか到達し得ないのではなかろうか?ありえないほどの複雑性、未だ未知数であり未解明であり、ありえないほどの多様性へと向かうとするなら、そのことなのだと思う。

 

細胞遺伝学者のフランソワ・ジャコブは、単純な対象は歴史よりも、(物理的)制約により依存している。しかし複雑性が増すにつれて、歴史がより大きな役割を演じるようになると述べている。ジャコブは進化の営みを、ブリコラージュと表現した。(『現れる存在』アンディ・クラーク著より)

歴史というのは、それもまた複雑性を増してゆく。当然ながら、それだから人間も複雑性を増してゆく。何を慌てているんです?(ほたるのセリフ)それどころか、素敵に楽しいことがこれから始まるんじゃないですか。と、ほたるは言う。

「なにをあわててるんです?ちっともこわいことなんかありゃしない。それどころか、すてきに楽しいことが、これからはじまるんじゃないですか。」(『火影の夢』より)と、船員はにやり笑いで言った。

 

イメージの介在者である側面を持つセリフには、そのセリフが創作されたとたん作家の脳内をもてあそぶかのようにして、ゲシュタルト崩壊、それか意味飽和を引き起こす。

熊   「いけない?いけないかな?いけないと思いたいのかな?いけないに違いない。

     いけない。」

よって次のセリフが崩壊を実現し、

ほたる 「池がない。池がなければ水がない。水がなければ魚はいない。」

そして前にすすまんとして再び何かを促す。

熊   「出口は、そっちじゃない。あっち、そっちじゃないって。こっち、あっち。」

水すまし「アッチー!、アッチ、アッチ、熱っちー!」

これらは、一旦は芝居のストーリー内部での予兆でもあるのだが。

セリフはその時、哲学的思考をめぐらせた語の連なりであるのではなくて、役者、作家、構想される舞台が、役者が実現する人生においての年の重なり、時系列を備えた事実、年月日の「時」を刻み込んだ連なりとなって、ひとつのイメージにもうひとつのイメージを重層させてゆく。イメージも複雑になってゆく。

芝居のセリフは、役者の重たい身体が主体となって発せられ、イメージとイメージとを織りなしてゆく。役者の、イメージする身体の奥は、不可視だ。不可視と不可視な者同士、真実というものは何重になっても不可視なのだ。

 

・・・・ように・・・見える。(熊のセリフ)

 

イメージをはらんだ全身全霊の者同士の対話、真実とは何かと問うのなら、そのことが真実なのだと思う。

 

『ガラスの海 砂の雨』二幕の後半、町内会長の出現を契機に、忘却の時間が雪崩を打つ。そこの場の急速な転回は、病理としての実態に触れずにおこうとし、抑えた表現と見るのなら、これ以上の喩えはないというように見えて来る。そんな緊迫する時間がある。

そうすると、そこの忘却についてのシーンに注目してみると、再び考えてみたくなる。この芝居は、ループする芝居なのだろうか?

時間軸を縦軸にとらえると、横軸は?何だろう?どんなものになるのだろうと考える。

 

1978年『夢飛行』という芝居がある。

『夢飛行』は、記憶を喪失した男、一穂(カズホ)は、自分の名前さえ思い出せないでいる。一穂が、かろうじて覚えているのは、一本の映画が野外上映された公園の記憶、場所のことだ。映画の内容を一切消失しているものの、場所と場所にまつわる記憶が、存在証明のように、会話で繰り返される。

一穂  「映画やってましたよ、あの公園で。「夢飛行」ってやつ。お客たちは黙って静

     かに石みたいに身体を縮こませ、悪夢にうなされたように、冷や汗を全身に

     かき、怯えながら食い入っていたっけ。まばたきひとつせず、呼吸するのさえ

     忘れてジィーッと、ENDの字幕が出ると拍手が会場に響き渡り、皆興奮した

     面持ちでその場に居続けて。どうしてなんだろう。映画のストーリーすら思い

     出せないのに、あの人々の姿だけが蘇る。どうしてなんだろ?」

制度と秩序に翻弄されながら、つまりは一穂を取り囲むのだ。表舞台に分析的思考があった時代を背景にして、精神病院職員がサーカス団員に紛れてやって来る。一方で、一穂の恋人、一穂と共に失踪した、かつてサーカス団の花形であった真帆(マホ)を探して団長がやって来る。ラストシーン、一穂は真帆と再会する。

一穂  「さよならする過去も持たずにさよならだ。登り釜の跡地で煉瓦クズを手で掬っ

     た時、あなたに会って、これは本当に出会ったね。」

まるで俵万智の短歌のように鮮やかな「世界」、そして再会とは、忘却の極北なのではないかと思う。

忘却を恐れるなと言っているかのようだ。

再会するとは、なんと生命的なことだろう。秩序と制度に支配されていた身体と心が自分を取り戻す。あなたは、最初に生まれた時に、どこかの天井や母親のぬくもり肌触り、それはそうかもしれないが。そうでない何か。何かやそういったものではなく、粒子や波動、生命と出会っていたのだ、というものだ。だから、どこかの天井や母親とは、時間軸でいうならば再会なのだ。

 

「幾多もの風景を見ようとも、あなたの目は初めの頃のように透き通っていて、愛はまだあなたを感動させる」(『千と千尋の神隠し』「いつも何度でも」の中国語バージョン日本語訳より)

「あなたに会って、これは本当に出会ったね」

忘却を恐れるなと言っているように聞こえる。

 

日常というものはペルソナだ。当たり前の生活、何事もなく平和で安穏としていられる平凡な日常は、人間がそこに居続けたいと願いながらもペルソナだ。生成AIは、自分たちはペルソナですと言う。生成AIがペルソナだと言うのなら、もちろん人間もペルソナだ。日常において、ペルソナだ。対して、真逆で劇的で非日常的な生成AIはいないように思う。

 

ひとは、ついさっきの所作をデッサンのように、執拗に、病的にさえなぞり繰り返してしまうこともあるだろうが、そんなことは大したことではない。

「舞台から日常へ、日常から舞台へ」座長はそんなことを言ってたこともあったっけ、と思い出す。

思考に支配されない、重たい身体を支えるイマジネーション、その軌跡はループするのだろうか?とあらためて問うことになる。

 

(つづく)