1987年から1989年の2年間、演技論的転回の最中に、役者鍛錬のために創作された台本、

『ガラスの海 砂の雨』の元になる台本は、いくつかのプロットに分割された断片的なアイデアノートそのままといえるかのようなセリフ群の台本だった。

橋本一兵個人の大学ノートに書かれたセリフは、その都度、近所のコンビニでさっと複数コピーされ、役者に配られる。そして立ち稽古に入ったのだろう。物語の始まりなのかそれとも終わりなのか、どこに挟まるシーンなのかは未知数のまま、プロットごとの稽古を繰り返ししていただろうかと想像する。未完の50枚ほどのコピー台本の続きは、有るのか無いのかは教えてもらえなかった。西山さんの引っ越し手伝いをしている時に、他にも当時のフリーペーパーなどと共に譲ってもらったのだ。「あげねーよ。」とは言ってなかった。

 

『天文サンダル』と仮タイトルがありその後に、安房直子『火影の夢』より、と記してある。

 

ある港町に小さなこっとう品店がありました。(『火影の夢』より)

『火影の夢』の書き出し。舞台で見た物語世界が別の空想味をおびて思い出される。現実に役者がこっとう品店に生きていたかの様に思えて来る。セリフには現れてこないが、役者にはセリフ世界とは別の、イマジネーションの体験があったことを、それも一気に空想させられて動揺させられる。どきどきしながら読み進むと、陸の石だたみの光景が浮かんでくる。小さな町、港町です。変だと思ったんですが、こういう事もあるんだなあと思うと(ほたるのセリフ)脳内のイメージは、岩内町がまるで地中海に面したどこかで、エビが美味そうな町に思えて来る。エメラルドグリーンの水がたゆたう。

 

「知ってますか、むかし、地中海だか、北海だかに大きな津波があって、海辺の町がひとつすっぽり海にのまれてしまったことがあるんです。外国じゃ、有名な話ですよ。伝説にまでなってます。なにしろ古い港町でしたからねえ。その町が、海にしずむときに、どういうわけか、あの娘だけ、海の魔物にひょいとたすけられて、死なずにすんだんだが、そのとき魔法にかけられて、こんな小さな姿になってしまったんだそうです。ちょうどその日、娘は自分のへやのストーブにあたって、やっぱりこんなふうにぬいものをしていたそうですよ。魔物は、娘を、そのストーブごと魔法にかけて、海の底にしずめてしまった。娘は、もう長いこと.......そう、かれこれ百年だか二百年だか、海の中で眠っていたのが、なにかのひょうしに水の上にすくいあげられて、ストーブが燃やされるときだけ、人の目に見えるんですよ。」(『火影の夢』より)

町にひょっこり現れた船員がこっとう品店の老人に話す。

 

「あの娘」が「ほたる」を行き来する。

「ほたる」は「あの娘」を行き来する。

「なんてことだ。」(『火影の夢』より)と老人が言うと「なんてことだ」と「熊」と私は驚く。

役者と劇団は、2年間もの間、海の底にいたのかもしれない。はたまたストーブの中にいたのかもしれない。心のあたたまるストーブの中から外へ、外から再びストーブの中へと行き来していたのだ。

『天文サンダル』にはこんなセリフがある。

千代  「ねえ、助けに来てくれたの?(深呼吸して)空気、空気よ。今、何時ですか、

     何年何月ですか、何曜日?今日はタンポポの日?イルカの日?マグロの日?

     ねえ、教えて。私たち、こうして虫や魚、動物を毎日数えてきました。ずうっ

     と前から」

そのとき、手と足がとてつもなく大きな男が現れる。イルカの声が響き渡る。顔はイルカに似ている。と、ト書き。『天文サンダル』では、イルカに会っていたのだった。まるで映画『LAMBラム』のラストシーンに出現する、異界の獣人バフォメットのようではないか、と想像する。

 

「すると船員は...(略)...、そして例の小さなストーブの小さなたき口を指でつまんで、「ちょっと、ためしてみましょうか。もう燃料は、ちゃんとはいっているんですから。」『(火影の夢』より)

『火影の夢』が『天文サンダル』へ、そして『ガラスの海 砂の雨』へ輻輳する。進化論になぞらえるなら、交叉と突然変異といたしたい。過ぎた過去は変わりはしないが。変わりはしない過去の出来事において何かが実現していたのを、証明できない。よくある事です。長い時間座っていて急に立ち上がると、頭がくらくらっとして、どこかに飛んでいく様な・・・それで、あわててノックしたら(ほたるのセリフ)。だが、今では皆が忘れてしまっただろう、澄川の小路一角にあったビル貸室の、仮の稽古場の薄暗さだけが浮かんでくる。

 

『天文サンダル』の熊は言う。「気をつけてほしいのは燃料。このストーブを買った時に、赤潮の巫女に幾度も念を押されたんだ。干した海藻と海の砂を半々に混ぜて使い・・・。」

パジャマ男「わかった」

熊    「言ってみな」

パジャマ男「干した海藻と海の砂を半々に混ぜて使う・・・」

と、くりかえしているうちに熊がいなくなる。(ト書き)

パジャマ男「おい、熊、旅に行くんじゃねえだろうな、風下にむかうんじゃないだろうな

      あんた、そこがどこか分かってるのかい、すぐ脱出せよ、すぐ脱出せよ」

 

芝居は、ここはどこなのか?と探し求める。

熊   「ここは?あそこ?」

『ガラスの海 砂の雨』はここはどこなのか?を、探し求め続ける。

 

老人は、魚のような目で、じっと男を見すえました。それから

「あんた、店をまちがえたんじゃないのかね?」と、言いました。「うちは質屋じゃないんだよ。」(『火影の夢』より)

『火影の夢』をモチーフにしたイメージ、劇の総体とも言い換え得るイメージを皆が、血となり肉となり骨身に染み渡らせて共有していたはずだ。

 

熊   「はあ、(ストーブを受け取る)海の香りがする。(じっくりと見て返そうと

           する)店を間違えましたよ。ここは質屋じゃないし。」

 

何が実現していたのか証明ができない。

音楽にたとえると、同じ曲を毎日のように聴いていても、ある日ある時、音符のたった一つが、そこだけがスタッカート(専門的に何と表現するのか知らないので間違っているかもしれない)だと気がついて、なぜだろう?スラーじゃなくてスタッカートなのは。2分音符じゃないってことなのかな?それは、センスというものか。脈動とか鼓動というもの。

こんなふうにして「世界」が実現する。当時、役者にとって、稽古時間はどんな時間だったのか?私にはひとつひとつの未完の「世界」、夢のような時間が想像されてくる。

 

ここで文脈の全く異なるところからの引用、書物から書物へと、飛ばし読みからの引用を試みたい。

等価性の秩序のなかでは、価値の異同を決定する尺度は、必要とはべつの性質のものである。....(略)....この尺度は外部から人間に課せられる。すなわちそれは、人間の時間と労力なのだ。(ミシェル・フーコー『言葉と物』より)

役者の時間と労力としてみると、稽古時間のその時、役者の時間と労力は、不可視なイマジネーションであった。

価値というものについて度外視しているつもりだったが、再々、価値とはなにか?と問いかけずにおれなくなるのだった。それは評価だと言ってしまうとそういうことにもなる。

役者は少なくとも、へこんでいる時でさえも、「自分だったらこうするのに・・・」と、他の役者の稽古を飽かずに見ているものだ。眼の前のイメージに甲乙をつけるのではなくて、くつ下よりも花束がよかったとか、季語はあったほうがよかったのではないか?とかではなくて。

稽古が進展する時、尺度が揺らぐ時というのは、白紙を前にする演出家や役者にとって、その時の起こりというのは意味不明な感触であり、「なんだかわからない」という感に直に訴える何か、不可視な、何かがある。そうなった場合、人間の身体はそのままブリコラージュであるかのよう、確かに、一個の作品の現出を待つことになる。イメージが、共有を要求されていたのではなくて、イマジネーションが要求されていたのだ。

 

表象に還元することのできぬ《労働》という要素である。自然のいち存在を特徴づけることを可能ならしめるのは、もはやその存在との表象にもとづいて分析しうるたぐいの要素ではなく、《組織》と呼ばれる、その存在の内部におけるある種の関係なのだ。(『言葉と物』より)

役者存在の内部の意識、潜在意識、前意識、無意識というものは、LGBTQであるのと同じようにグラデーションであり、役者は分析を断念させられるまで考えぬき、イマジネーションを喚起する。多様性に満ち、複雑になればなるほど、証明し難い「何か」とか「ある種」が増してゆく。

 

意識と潜在意識を分けてしまうのは分析的思考なのだと、或るスピリチュアルの専門家は言う。分析的思考を超えるとはどういうことか。スピリチュアル専門家に言わせると、感情と出来事による記憶をなん度もなん度も繰り返し思い出してルーティーン化することで、それが自分自身のプログラムになってしまうのだと言う。それが潜在意識プログラムになってしまうと、新しいことに出会った時には、過去の感情との葛藤のために不安や不快感が生じてしまう。そうすると過去の感情を繰り返し生きることになってしまう。(過去の感情と思考に支配されず、行き来する余裕があるのならいいのだろうけれど、と私は思う。)回路化した思考に支配されずに生きるにはどうすればよいか、ということを人々に説いている。

 

こうしたすべては、これ以後、もはや表象のそれ自体にたいする二重化のみに基礎をおくことはできなくなる。(『言葉と物』より)

ダブルバインドはやめたとして、自由度をどこかに隠しもつ二重化はやめるわけにはいかない。それでは、資本主義以外だったらなんでもいい、資本主義以外の三重化でいってみるか?ということではなくて、(ここで、書物から書物へと渡り歩く)

私たちに開かれている時間性がどのようなものであるのか、均質で成長する連続的な時間性に基づいて歴史性を理解するのか、それとも全く違う時間性概念に基づいて歴史性を把握するのかを鋭く問うている。もちろん、私たちがどちらを選ぶのかは言うまでもない。と、田崎英明は『間隙を思考する』(18章:資本主義の下でなぜこんなにも家族が問題になるのだろうか)で書いている。

それでは、と問うているのだろう。あなたの時間性は、何なのか?

時間性をあらためて問うてみることをできないほどに、現代は忙しいようだ。なんでこんなに速いの?と、たびたび思わせられる。速いスピードで踊るし、歌うし、身体能力には現在の時間性が体現されている。今やCGと見紛うほどの身体技術の進化が見られる。

 

舞台役者であったり、実人生の役者であったり、平凡な生活を主体とする市民を想定してみるにしても、「今や現代は、70億人、90億人の人々が70億90億個々それぞれの歴史を意識し始める・・・」というようなことを誰かが書いていた。

そういう時代に差し掛かったのだ。

全く違う時間性をもたらすのは、70億人90億人が持ち寄ることによってしか到達し得ないのではなかろうか?ありえないほどの複雑性、未だ未知数であり未解明であり、ありえないほどの多様性へと向かうとするなら、そのことなのだと思う。

 

細胞遺伝学者のフランソワ・ジャコブは、単純な対象は歴史よりも、(物理的)制約により依存している。しかし複雑性が増すにつれて、歴史がより大きな役割を演じるようになると述べている。ジャコブは進化の営みを、ブリコラージュと表現した。(『現れる存在』アンディ・クラーク著より)

歴史というのは、それもまた複雑性を増してゆく。当然ながら、それだから人間も複雑性を増してゆく。何を慌てているんです?(ほたるのセリフ)それどころか、素敵に楽しいことがこれから始まるんじゃないですか。と、ほたるは言う。

「なにをあわててるんです?ちっともこわいことなんかありゃしない。それどころか、すてきに楽しいことが、これからはじまるんじゃないですか。」(『火影の夢』より)と、船員はにやり笑いで言った。

 

イメージの介在者である側面を持つセリフには、そのセリフが創作されたとたん作家の脳内をもてあそぶかのようにして、ゲシュタルト崩壊、それか意味飽和を引き起こす。

熊   「いけない?いけないかな?いけないと思いたいのかな?いけないに違いない。

     いけない。」

よって次のセリフが崩壊を実現し、

ほたる 「池がない。池がなければ水がない。水がなければ魚はいない。」

そして前にすすまんとして再び何かを促す。

熊   「出口は、そっちじゃない。あっち、そっちじゃないって。こっち、あっち。」

水すまし「アッチー!、アッチ、アッチ、熱っちー!」

これらは、一旦は芝居のストーリー内部での予兆でもあるのだが。

セリフはその時、哲学的思考をめぐらせた語の連なりであるのではなくて、役者、作家、構想される舞台が、役者が実現する人生においての年の重なり、時系列を備えた事実、年月日の「時」を刻み込んだ連なりとなって、ひとつのイメージにもうひとつのイメージを重層させてゆく。イメージも複雑になってゆく。

芝居のセリフは、役者の重たい身体が主体となって発せられ、イメージとイメージとを織りなしてゆく。役者の、イメージする身体の奥は、不可視だ。不可視と不可視な者同士、真実というものは何重になっても不可視なのだ。

 

・・・・ように・・・見える。(熊のセリフ)

 

イメージをはらんだ全身全霊の者同士の対話、真実とは何かと問うのなら、そのことが真実なのだと思う。

 

『ガラスの海 砂の雨』二幕の後半、町内会長の出現を契機に、忘却の時間が雪崩を打つ。そこの場の急速な転回は、病理としての実態に触れずにおこうとし、抑えた表現と見るのなら、これ以上の喩えはないというように見えて来る。そんな緊迫する時間がある。

そうすると、そこの忘却についてのシーンに注目してみると、再び考えてみたくなる。この芝居は、ループする芝居なのだろうか?

時間軸を縦軸にとらえると、横軸は?何だろう?どんなものになるのだろうと考える。

 

1978年『夢飛行』という芝居がある。

『夢飛行』は、記憶を喪失した男、一穂(カズホ)は、自分の名前さえ思い出せないでいる。一穂が、かろうじて覚えているのは、一本の映画が野外上映された公園の記憶、場所のことだ。映画の内容を一切消失しているものの、場所と場所にまつわる記憶が、存在証明のように、会話で繰り返される。

一穂  「映画やってましたよ、あの公園で。「夢飛行」ってやつ。お客たちは黙って静

     かに石みたいに身体を縮こませ、悪夢にうなされたように、冷や汗を全身に

     かき、怯えながら食い入っていたっけ。まばたきひとつせず、呼吸するのさえ

     忘れてジィーッと、ENDの字幕が出ると拍手が会場に響き渡り、皆興奮した

     面持ちでその場に居続けて。どうしてなんだろう。映画のストーリーすら思い

     出せないのに、あの人々の姿だけが蘇る。どうしてなんだろ?」

制度と秩序に翻弄されながら、つまりは一穂を取り囲むのだ。表舞台に分析的思考があった時代を背景にして、精神病院職員がサーカス団員に紛れてやって来る。一方で、一穂の恋人、一穂と共に失踪した、かつてサーカス団の花形であった真帆(マホ)を探して団長がやって来る。ラストシーン、一穂は真帆と再会する。

一穂  「さよならする過去も持たずにさよならだ。登り釜の跡地で煉瓦クズを手で掬っ

     た時、あなたに会って、これは本当に出会ったね。」

まるで俵万智の短歌のように鮮やかな「世界」、そして再会とは、忘却の極北なのではないかと思う。

忘却を恐れるなと言っているかのようだ。

再会するとは、なんと生命的なことだろう。秩序と制度に支配されていた身体と心が自分を取り戻す。あなたは、最初に生まれた時に、どこかの天井や母親のぬくもり肌触り、それはそうかもしれないが。そうでない何か。何かやそういったものではなく、粒子や波動、生命と出会っていたのだ、というものだ。だから、どこかの天井や母親とは、時間軸でいうならば再会なのだ。

 

「幾多もの風景を見ようとも、あなたの目は初めの頃のように透き通っていて、愛はまだあなたを感動させる」(『千と千尋の神隠し』「いつも何度でも」の中国語バージョン日本語訳より)

「あなたに会って、これは本当に出会ったね」

忘却を恐れるなと言っているように聞こえる。

 

日常というものはペルソナだ。当たり前の生活、何事もなく平和で安穏としていられる平凡な日常は、人間がそこに居続けたいと願いながらもペルソナだ。生成AIは、自分たちはペルソナですと言う。生成AIがペルソナだと言うのなら、もちろん人間もペルソナだ。日常において、ペルソナだ。対して、真逆で劇的で非日常的な生成AIはいないように思う。

 

ひとは、ついさっきの所作をデッサンのように、執拗に、病的にさえなぞり繰り返してしまうこともあるだろうが、そんなことは大したことではない。

「舞台から日常へ、日常から舞台へ」座長はそんなことを言ってたこともあったっけ、と思い出す。

思考に支配されない、重たい身体を支えるイマジネーション、その軌跡はループするのだろうか?とあらためて問うことになる。

 

(つづく)