どこからか声がする。
「1000年前。・・・・イルカは人だった」
そして私は目を覚まし、その言葉を口にする。
「1000年前・・・」
「1000年前?」寝袋にくるまって眠っていた兵士も目を覚まし、隣で繰り返す。
「1000年前がどうした?」
「イルカになってしまった」
「イルカか?地中海に行けば出迎えてくれるさ。ムニャムニャ。おお、見ろよ、厚い雲がみるみる流れて行くではないか。秋の天気は変わりやすいからな。イルカ星なら、わし座アルタイルを目印に少し上、ちっさい星座だ。こうしてしっかり頭を地面に乗せると、全天の星座が見られるな。おー、感嘆するわ、まばゆいまばゆい。あまりの美しさにすっかり目が覚めてしまったぞ。おや、君はそれどころではないってわけか?どうしたん?夢にでもうなされたのかな?そんなら一杯やらないか?」
「下戸なんだ」
「おお、残念。一人で飲ましてもらうわ」
雨雲は、水に渇いた我々一行の期待を裏切って、大陸特有の天空の暴風にさらわれて行ってしまった。2、3日前から分厚い雨雲が広がって来てはいたもののついに一雫も落とさずに、もうはるか彼方へと雲は消え去りゆく。砂漠でなければ、そのほうが都合がよい時もあった。もしもあのまま村が残っていたなら、今ごろは収穫期だったんだ。今年は悪くない、庭の一隅に果樹園を作ろうと思っていたのに。そうやって考え事をしていると、恨みつらみがコブシを回して節をつける。
上空で風が唸っている。海神ポセイドンの咆哮だ。イルカ星は、西方を見渡すと地平線からやや上、今まさに砂漠の海から砂を蹴り飛び出して来たかのように見える。そうだ、おまえは、あの悪賢い荒くれポセイドンの御使だったんだ。
「そういやあ、名前を聞いてなかったな。俺、エスファハーン。君の名は・・・?」
兵士が尋ねた。
「何を言いたいんだ!?誰も知らないと思ってるんだな。誰一人、気がついてないと思ってるな。1000年前・・・・・イルカは人だった。あの時、蛍が飛んだのさ。泊の発電所から」
再び声が聞こえた。
「泊の発電所?」
どこのことだろう?何のことだろう?
「トマリノハツデンショ?変わった名前だなあ。よろしくな、トマリノハツデンショ。1000年前といやあ、・・・なあ、聞いてるか?・・・トマリノハツデンショ、アッシリア王ティグラト・ピレセル三世、アッシュルバニパル、バビロニア王ナボポラサル、ナボニドス、リュディア王ギュゲス、アリュアッテス・・・アケメネス朝ティスペス、キュロス一世、カンビュセス一世、キュロス二世、・・・・・ムニャムニャ・・・・カンビュセス二世、ダレイオス一世、クセルクセス一世・・・ダレイオス二世、アルタクセルクセス、・・・アルタクセルクセス、アルタクセルクセス、・・・ダレイオス・・・・ムニャムニャ、野蛮人め。ムニャムニャ・・・・」
老人クラブ一行は、一点の曇りない紺碧の空の下、先頭から約16キロメートルほど離れたところをとぼとぼ歩いている。一列縦隊の後ろから2番目のグループ。最後尾チルドレンは、腹を空かせたガキども。
「ガキとは失敬な」うち年長の子供の一人は、文句を言いたそうにするが、生粋の遊牧民気質なのか疲れ知らずで気丈夫、長い行脚に怯えさえ見せようとしない。腰を曲げて歩く最年長者のジジイを突っつき今にもコケさせてやろうと、そうしながらも介添の手を貸すときは貸す。からかいつつ遊びながら行軍について来る。
「若い子といっしょだと脳も若返るんだとよ、よいではないか」100歳のジジイに肩を貸す90歳のジジイ。
老人クラブは、実のところ歩き疲れた。もう、どこをどう歩いているのか、南を向いているのか西に向かっているのだかさっぱり分からなくなっていた。ともかく、先へと進む先頭が歩みを止めないのなら、こちらも足を休めるわけにはいかないのだ。脱落は死だ。
砂塵に吹きさらされた枯れ草木が、ときおり目に入る。古代、このあたりに人間が住むなんてことが、果たしてあったのだろうか?それとも、名の知れぬ遊牧の民などは、一度くらい通り過ぎただろうか?そんな数千年にわたる古い時代、火山爆発で吹き飛ばされた大小さまざまの岩石が、砂漠一帯にあめあられと降り注ぎ堆積したのだろう。
砂埃が風に舞うなかを、ごろごろの岩と灌木のあいだを縫うように、時として巨岩を迂回し一歩一歩、歩かねばならなかった。足の裏がタコとウオノメだらけになった。道なき道とはいえ、これまでも大勢が切り傷すり傷で残していった血の足跡が、道に迷わせることをさせなかった。
「レッドカーペットじゃーん」
強気が失せない90歳のジジイ、ヒカチョケンリツツセセリ※1 は言うのだった。
塩湖に沿う道の突端にやって来たと思しき、風向きが変わるのが感じられた。まだまだ砂漠かあ。イグアナか、ウサギでも捕まえておかなければ。それと水の確保だ。
「塩水蒸気回収法でいくか?いや、井戸があるはずだ、遠くないどこかに人の気配がする」飯炊き人は、ひとりごとを言った。
飯炊き人には、先見の明がある。他の連中と同じくらいクタクタであっても、意識を鮮明にして、常に先を読まずにはいられない。性分ともいえる。飯炊き部門の長である72歳の若いババアは、皆から、メシヤと呼ばれた。
死に物狂いで歩く100歳のジジイ、アブラシームは、一貫して無口であったのだが今際の際の閃光が走ったか、突如、疑心にかられる。「この軍隊ってのは、よー?何人いるんだ?」
老人クラブ一同は、ハッと歩みを止めた。
アブラシームの呼吸が乱れている。
「数えきれないほどたくさんの人間が行進しているのが見える。何人いるのだか教えてくれ、ヒカチョケンリツツセセリ」
「なぜ、見えるんだ?おまえの心は空飛ぶ鳥の眼にでもなってしまったのか?アブラシーム」
「長い長いヘビがうねるように、大勢の人間が行進している。こんなにたくさんの人間を見たことがない、数えられない、うわうわ」
「その人々は集まって来ているのか?それとも列をなしているのか?」
「真珠の首飾りのように一列だ、鎖のように一列だ」
「恐れることはないぞ、死ぬのはまだ早い!百寿の祝いをしたばかりじゃないか我が友アブラシームよ、しっかりしろ」
「うわうわ」
「しっかりしろ!はちみつ入りレモン水だ、これを飲めアブラシーム」
「ゴクゴクゴク、ああ、数えられない。無念だ」
「数えなくていい、頭を休めるんだ。おお、神よ我らがアブラシームを救いたまえ、魂を救いたまえ」
長いこと立ち止まったままでいた。
友を腕に抱き、老人クラブ一同は、別れの覚悟を決めて皆が涙した。
そこへ、歩みをせかそうと、ひとりの兵士が馬を駆って老人クラブの元へとやって来た。今のところ、老人クラブに脱落者はいない。
未だかつて見たことのない、このような強固な紐帯は一体なんなのだ?兵士には、老人クラブのそれが謎だった。
兵士は、アブラシームを囲み祈りをあげ始めた老人達、周りにチルドレン、やがて他の村落の人々部族集団が集まり、幾重にもなって取り囲むなかへと割って入ってゆかねばならなかった。
「ペルシア兵よ、兵士は何人いるのだ?」ヒカチョケンリツツセセリが訊ねた。
それは兵士にとって予期せぬ問いだった。
兵士は馬上から老人クラブを見下ろし、とっさに腕を大袈裟に広げて見せた。
「おおお!」アブラシームが驚きの声を上げると、つられたその他大勢が「おお・・・」とどよめく。
「数多ジジババの命の火が消えても、神である王の火は燃え尽きはせぬ、永遠に」
兵士は吹きさす砂にやられた赤い目で、言う。
「チッ!何人なんだよ!?」ムカっとして詰め寄るヒカチョケンリツツセセリ。
自分の腕だけでは、さも足りなさそうにして、兵士は、集まる人々に手と手を繋ぐよう促すのだった。
「だから、何人なんだよ?馬鹿にしやがる、おまえらただの盗賊じゃねえのかよ?ふざけやがって!何人だ?この部隊は?言ってみ」干からびた口元から、泡だった唾液がほとばしる。
「落ち着け、子供の前だ。みっともない真似をしちゃいかん」77歳のジジイが制する。
子供達は、一人前の兵士のように凛として、喧騒を見守るのだった。
「こうして連行されてしまったのも何かの縁。穏やかに話し合って、現状を共有しようではないか?ペルシアの若者よ」
「現状?ほとんど足手まといになっているぞ。兵役に志願したのは、そっちじゃないのか。うちらは、食い物をよこせと襲撃しただけだ。そこへ交渉を持ちかけて来たのだから、うちらとしては妥協してやったようなものだ。おまけに、てめーらときたら老人と子供だけだ。兵役に就くなんて、とてもじゃないが対象枠から外れているしな。どうやってこき使ったろーか何を考えたか知らんが、大将は甘い。俺から見ると大将は実に甘い。苺のように甘い。だからこそ尊敬もされているのだがな」
「ペルシア兵は馬で移動できるが、我々は徒歩だ」
「だから馬にもゆっくり歩かせている。慈悲深いだろうが。言っとくがな、神殿に御座しますサーサーン王よりもうちら部隊の大将のほうが、名峰ザルデ山よりもはるかに気高い心を持っておられる」
「大工のサーサン?サーサンは王だったのか?」
「サーサーンだ。諸王の王ってえやつだ」
「だから、大工のサーサンが王なのかと聞いている」
「サーサーンだ」
「話を元に戻そう。我が友であるアブラシームは今や瀕死の状態だ。そこで、アブラシームは、ここ我々における全貌、つまり現在地を知りたがっている。そういうことだな?アブラシーム?」
「ワシは死なぬ」
抱き抱えられながら手をひらひらさせて応えるアブラシーム。
「そうか、それにしてもだ」
77歳ジジイは、いったん呼吸を整えた。
「瀕死の人間が願っているのは物事の全体だ」
「死なぬのだっつの」
アブラシームも呼吸を整え呟くと、ヒカチョケンリツツセセリは、懐で支える腕にぎゅっと力を込めた。
「さよか」と、ヒカチョケンリツツセセリが言う、
「はいな」※2 と、アブラシームは応える。
しっかり目を見交わす二人。我ら朋友に幸あれかしと、老人達は、真の友愛の姿に再び涙した。
77歳ジジイはペルシア兵に向き直り言った。
「さて、王がどこぞの人間かはこれで分かった。しかし、若者よ、君はこの部隊であれペルシア全軍の陣営であれ、全体というものを知っているのかな?アブラシームが見た、一列に長々と隊列を組む部隊の人数くらい知っているだろう?その中に我々もいるのだろうから、まずは説明してもらえないかね?」
「全体?そんなこと知ったからって何になる?意味のないことだ」
「ほー。そうすると、君にも意味はないということだ。覚えておこう、君は無意味なんだな。全体が無意味に埋め尽くされたなら、君だけではなく私も無意味だということを認めることになるだろうな。だけど、無意味なのは今は君一人だ」
「くっそ生意気なジジイだ!!名誉ある死をおまえにくれてやろう、さあ、名を名のれ!てめーブッ・・・」たギッてやる!と、ペルシア兵が剣を抜いたその時、77歳ジジイがあっと驚く一声を発したのだった。その声は、あたり一帯に雷鳴の如く轟き渡り、群衆が一斉に、ブルース・リーが繰り出すワン・イン・パンチを喰らったかのように尻もちをつき、ペルシア兵は落馬し気絶した。
「はいっ!その名は、そして、君の名は!?」※3
まさに晴天の霹靂であった。
朗々とした見事なまでの一本調子、アクセントがどこにもなく、わずかに句読点らしき間がときおり知れるのみ。驚嘆の滑舌は踊る刺身をもてあそぶかのよう、人々には未知の外国語のように聞こえたのだった。これが名前なのか?どこからどこまでが名前なんだ?こんなに長い名前とは、もしや何処の王なのか?いや、そうじゃない、禍々しいことを言っているに違いない、異教の悪神アーリマンが顕現したのだ!ああ、災いだ、恐ろしや恐ろしや、あな恐ろしや!人々は震え慄き観念した。そして、その渾身の気迫である口上は、真っ直ぐ胸に響いたのだった。まるで自動体外式除細動器のように。
「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは三重の片田舎、ガキの頃からやさぐれて十四の時には腹にドスを飲み、ヤクザのドンに一振り浴びせ、踏み込んだ足も泥沼の底に届かぬ沼田から深川へ抜け出すこともままならず、身の生業も闘殴や放火の未遂と数多く、財物牙保なら朝飯前、樺戸からの脱獄も一度や二度でおさまらぬ、強盗、強姦、暇つぶし、重なる悪事の合間では、泥炭起こす百姓どもに情けをタップリかけ蕎麦で、義賊と噂も高きいぃぃ。神出鬼没の蝦夷無宿、吹雪を走ったその名さえ、五寸釘寅吉たあ俺のおぉことだあ!!」※3
ゴスンクギトラキチ、かつての村人仲間は、それから取り巻く群衆もこの時初めて77歳ジジイの名を知ったのだった。時々アーリマン、時々知者ゴスンクギトラキチは、電気のようなショックを与えることで人々を若返らせ、恐れられながらも固く信頼されることとなった。
日暮れ近かった。
一命を取り留めたアブラシームと、放心したままのペルシア兵は、馬の背の左右にそれぞれ寝袋に包まれて結えられ、運ばれて行脚を共にし続けていた。昼の騒乱の熱気は消え失せ、老人も子供も、いつものように徒歩に耐えていた。
夕暮れはいつも無口にならざるをえない。
「ペルシアの若者よ、おまえが数を数えられるようになるまで、ワシは死なぬ」馬の腹越しにアブラシームは話しかけるのだが、ペルシア兵は、無言だった。
(つづく)
※1 ヒカチョケンリツツセセリは、『天球儀公園のドッヂボール』登場人物全員が、捕虫網を持って探し追い求める幻の蝶の名前。作家の創作と思われる。セセリチョウは研究対象としては地味であるらしく、学名のついていない種が多い。実際のセセリチョウ科チャバネセセリの幼虫は、稲を食べる害虫と見なされることもある。北海道で見られる長い名前のセセリチョウは、カラフトタカネキマダラセセリ。アポイ岳周辺に生息するヒメチャマダラセセリは、絶滅危惧種に指定されている。分類学上、蝶と蛾の区別はないのだが、セセリは蝶と蛾の中間といわれている。
※2 『無人の涯』より引用
※3『魔弾の射手ー囚人街道樺戸編』より引用