諦めるための準備体操 Warming-up to give up
やればやるほど自信がなくなる。ってことは、あるんだと思います。毎年、日本学生支援機構(JASSO)の支援を受けて、学生の海外への短期派遣プログラムを展開しています。もう8年目になるんですね。参加している学生には、英語で発表しているだけで、大したもんだって言ってあげたい。だってコーディネートしている私自身がそうですもん。言語を学ぶのは好きですよ。でも、実際はそこまで能力はないですもん。これは、本当に想っています。好きこそものの、上手なれだけです。私は、多少は英語なり、韓国語はしゃべれます。でもその”多少加減”を身に染みて知っているんです。どの国に行っても、Thank youって、いうことがある。そういう人も多いでしょう。そんなときに、やればやるほど自信がなくなる。の感覚が出ることもあるわけです。本音を言うともうやめたい。でも、私の人生は半分過ぎましたので、最後まで、死ぬまでやりたい、って感覚もあります。英語で発表しているだけで大したもんじゃないか、というのは私の本音です。でもさ、という自分がいる。どこかで、勝手に言い聞かせているんじゃないかという自分もいる。学生に気を使っている自分もいる。他の人に言わせるとなんで、学生に気を遣うのっていう人もいる。それは関係ない。お前らこれでいいんかい、という心の叫びもある。国際交流なんて、やめちまえってやつもいるんでしょう。ここのところ、日韓ではきな臭いニュースが流れています。韓国に限らず、国と国との話では、過去から現在、未来に至るまで、これからもずっとあるのでしょう。その枠を超えてほしい、と私は想っているのですが、私が死ぬまでに、そんなことはなかなか難しいのかもしれませんね。でも俺はバカじゃないかって思っている。先日、私が国際交流活動に関わっている理由は、少し述べました。https://ameblo.jp/lactoyoccus-mem/entry-12413084990.html国と国とをまたいだ時には、やはり国家のイデオロギーが働くのは避けられません。ただ、どのような状態でも、国を超えて、知り合いがいるってのは本当に大事。不謹慎と言われるかもしれませんが、***国で死者3名というよりは、***国で、私の友達のA君、Bさん、C先生の3名が死亡。という方が、どう考えても、リアルになる。前者のことは、ただの数字や統計になる。以前紹介した、養老猛司さんの書籍でもヒトの死には人称があるという話を紹介しました。国際交流が、三人称から二人称に少しでも動けば素晴らしいじゃないか。リアルになるというのは、そこに自分の意識が重なるからだと思います。国がなくなる必要はないです。繰り返しになりますが、私は日本が好きです。矛盾ですが、やっぱり俺はバカじゃないかって思っている。人種や経歴や、健常者・障害者、その他もろもろを含めて、あと100年くらいで、なんとかならないのだろうか。”コスモポリタニズム”を提唱したのは、確かギリシャの哲学者だったかな。人種や言語などを超えたところで、世界国家を作り上げるべきだという発想なんだと思うのですが、その時代で既にそのことが考えられていた。西洋では、先行して、果てしない動乱と虚無が跋扈していたのでしょう。”そろそろやめといたほうがいいんじゃないか”って思っても不思議じゃない。でも、西暦で2000年の歴史が構築されても、おんなじことで、ヒトは悩んでいる。釜山に来ると、必ず立ち寄っている、古本屋街があります。ぱらぱらと眺めていると、日本の占領時下の話と、それに立ち向かった韓国の人々の話が並べられていました。私は、物事を考えるときに、比喩にしたいと思っています。ただ、この本(何十年以上も前の本のようです)を見たときに、ああ、こういう本を見て育った人と向き合うんだ、と。コスモポリタンとはいいませんが、そろそろ国って概念を超えてやらんといかんことはたくさんあるんでしょう。プランクトンブルームの話も、以前ブログでしました。https://ameblo.jp/lactoyoccus-mem/entry-12403660106.htmlそれでも、国はなかなかなくならない。でも、私は日本が好きですよ。だから、そこを超えた何かが必要なんです。音楽、スポーツ、芸術。そして、”研究”も国家間のいざこざを、そのまま反映することはもちろんその反面、気にしなくていいさって、研究しようぜって、ベクトルで動ける可能性もある。気をつけなきゃいけないこともわかっています。ナチスの”優生学”の顛末は、まさにその典型的な負のパターンです。やればやるほど自信がなくなる。ってことは、あるんだと思います。でもやらなきゃ。ガソリンがあるうちはね。だから、諦めるための準備体操も必要です。追憶:釜山、国際市場から、山の方面に向かった古書店。以前、紹介しました。ひたすら、釜山の”釜状の山”を登りました。そして歩きました、4時間。アキレス腱を少し前断裂したとは思えない左足君が、頑張ってくれました。(妻は心配していましたが)釜山の街並みや釜山湾を見ていると、これまでの情景が見え隠れします。ここに日本人もたくさんすんでいたんだなぁ。慶弔の役で、船団が来たのだろう。韓国武士が踏ん張ったに違いない。朝鮮戦争の南北の押し返しの中、追い詰められた南の人々。何とか、38度線まで盛り返した。ここではないですが、この半島の地に、私の妻の家族もいた。想像は、やさしさにかわる。以前、このブログで”教養はなんのためにあるか”という話をしましたが、やはり私はそう思います。それは”やさしさ”のためです。