タイ・バンコクにシリラートという病院があり、中には博物館があります。
以前このブログでも紹介しました。
私は二度訪問しています。
https://ameblo.jp/lactoyoccus-mem/entry-12430793510.html
私は二度訪問しましたが、こちらには人体について、蝋で固めた人体や奇形児、
事故、災害など、かなり直接的な実物が展示されています。
https://www.bangkoknavi.com/miru/14/
私は幼い頃から死について非常に強い関心がありました。
死というと、概念的な死や観念的な死を想う方も多いかと思いますが、
私は比較的若い時期は、直接的な死と観念的な死が
心の中に混在していました。
養老猛司氏が「自分らしさだったり、本当の自分なんていない」と著書で語られています。
私も基本的にそう思っています。
ただ最近思うのは人生(物語)の中には自分らしさなどないが、
もともとのところ(旅)には、存在しているかと思うようになってきました。
話がなかなかまとまらないので、戻りますが、
いずれにせよ「本当の自分はいない」というところで
なぜ冒頭にシリラート病院の話を持ち出したか。
あの病院の展示は直接的な死がまず前面に出ているのですよね。
幼い頃、偶然図書室で戦争に関する写真集を見てしまったときと
何となく感覚が似ているように思うのです。
でも本来は、死と生は両輪なので、直接的に死を感じないところで
実は死を感じるのが、物語の中に存在する「死」であるんじゃないかな。
死にたい。
生きたい。
と繰り返すとき
死も見えないし、生も見えない。
それを繰り返すそのリピートで自我を維持してしまう。
すると、
それは自分らしさなんてないことを気づく前に
あふれてしまう。
なぜなら、本当の自分なんていないのだから。