第16ー17回 読書会『一般意志2.0 ー ルソー、フロイト、グーグル』(東浩紀) | TDGのブログ

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大学生・大学院生からなる自主ゼミ。

編集=豊川

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
東 浩紀
講談社
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・動画コンテンツ
東浩紀 ウェブ学会~一般意志2.0を語る~ 1/3 2/3 3/3

【動画版】茶会ちゃんねる特別編: 東x白田の一般意志2.0について語る (1)(2)(3)(4)(5)

現代ビジネス 東浩紀×佐々木俊尚 対談 『ツイッター、ニコニコ動画、民主主義』 生中継

東浩紀×田原総一朗 対談 『ツイッター、朝ナマ、民主主義』 Ustream

・インタビュー
「一般意志2.0」を現在にインストールすることは可能か? 東浩紀× 荻上チキ - SYNODOS JOURNAL(シノドス・ジャーナル) (1)(2)(3)(最終回)

週刊読書人 2012年1月6日 新年特大号(12月30日号合併)

NEW「一般意志2.0」が橋下市長の“独裁”を止める?―現代思想家、東浩紀インタビュー(BLOGOS編集部) - BLOGOS(ブロゴス)

・書評
新潮2月号 福嶋亮大さん「心揺るがす知的な冒険」

文學界2月号 國分功一郎さん「この本には三つの苦しさが刻まれている」

日本経済新聞 鈴木謙介さん「情報技術の進化と政治論じる」

朝日新聞 斎藤環さん「政治の未来図を描き出す想像力」

境真良さん「一般意志2.0」読後 - 感量主導 ~ led by passion ~

池田信夫さん 民主主義の過剰 - 『一般意志2.0』 - BLOGOS(ブロゴス)

村上敬亮さん 政府の審議会を、ニコ動で放映せよ・・・という、東浩紀さんの「一般意志2.0」を読んで : 情報産業の未来図 - CNET Japan

橘玲さん 書評:東浩紀『一般意志2.0』 | 橘玲 公式サイト


47NEWS 片岡義博さん「民主主義をバージョンアップせよ!」

SYNODOS JOURNAL : 「一般意志2.0」実装の鍵はデータベース、ではない? 飯田泰之さん

第三文明3月号 熟議民主主義を補完する「アップデート」という試み 氏家法雄さん

・連載小説
群像2月号 日本文学盛衰史 戦後文学篇〔20〕高橋源一郎

・Togetter
@jyonaha先生、@hazuma氏の「一般意志2.0」を評する

関西で行われた一般意志2.0読書会のレポまとめ

誤読される一般意志2.0、山脇直司xマイマイノリティ。

・実現システム
いるか | 一般意志2.0 実現システム α版




 さて、TDGでは『一般意志2.0』の読書会を2週にわたって行いました。読書会そのものをまだ十分にこなしていないので、その方法に関しても手探りの状態で行いました。1週目ではそれぞれの疑問点を語り合いましたが、なかでもyuttasの問題提起がまだ本人の中でも固まっていなかったものの、示唆に富み、2週目までの読み返しにおいて突き動かされるものがありました。2週目ではみかんも加わり、yuttasのレジュメをもとに話が進んで行きました。そこでも新たに一般意志2.0の実装可能性に関して問題提起がされ、話し合いました。みかんにより関連書籍として勧められた伊藤計劃の『ハーモニー』をいつか読書会で読んでみるのもいいかもしれません。

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)/伊藤 計劃

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以下、記録です。

(豊川)
 わたしたちはいまや、ある人間がいつどこでなにを欲し、何を行なったのか、本人が記憶を失っても環境のほうが記録している、そのような時代に生き始めている。実際、現代社会はすでに、本人の記憶ではなく、記録のほうをこそ頼りに、ひとが評価され、雇用され、ときには裁かれる事例に満ち始めていないだろか。たとえば、ネットの検索だけを頼りに、政治家や芸能人の発言に齟齬を発見し揚げ足取りに夢中になっているネットユーザーを思い起こせばいい。
 本論の主題ではないので触れるに止めるが、その変化は、現代思想を学んだ筆者にとっては実に興味深いものでもある。というのも、そのような時代の到来は、二〇世紀の哲学の主要な問題だった「主体」や「責任」「証言」「同一性」という概念に大きな変更点を加えるはずだからである。それはとりあえずは、「主体の時代」だった近代にひとつの切断線が引かれたことを意味するはずだし([...])、煎じ詰めれば「自己とはなにか」という永遠の謎に迫るものでもあるはずだ。わたしたちをわたしたちたらしめているものは、いったいなんなのか。二〇年前、三〇年前にネットに投稿された文章や映像は(これからの世代は一生その亡霊たちに憑きまとわれることになるのだが)、現在の自分にとってどれだけ本質的なものだろう。人間は、自分でもすっかり忘れてしまっているそれら過去のあらゆる細部について、本当にすべての責任が取れるものだろうか。
(86,87p)

(104p)
→連載との比較

 二〇世紀の後半は、ヘーゲルが考えた「国家意志」の不可能性があちこちで明らかになった時代だった。熟議民主主義の理想は、もはや思考実験としてしか存在していない。
 そしてじつは、情報化は、あたかもその欠落を埋め合わせるかのように進んできたという歴史的な符号がある。
(145p)

 いずれにせよ、ここで重要になってくるのは、大衆の無意識をいかにして可視化し、専門家の熟議の場に介入させるのか、そのインターフェイスの設計である。審議会やパブリックコメントの制度は、根本的に変わる必要がある。(157p)

 いま日本に住むわたしたちは、はたして、そのような意味で「リベラル」たりえているだろうか。(214p)
→震災後を意識している

第一三章の注8

p222,223

 にもかかわらず、筆者が本書でその蛮勇をあえて奮ったのは、ネットが政治を変える、ソーシャルメディアが政治を変えると喧しく言われている、その光景の底の浅さにいささかうんざりしたからである。ネットは政治を変える。確かにそうだろう。というよりそうでなくてはならない。しかしそれはおそらく、単純に電子選挙だとかネット政党だとかいった話ではない、そこよりもさらに深く、そもそも政治とはなにか、あるいは国家とはなにか統治とはなにか、その定義そのものをラディカルに変える可能性に繋がっているのだ。筆者はそれを明らかにしたかった。(250p)

『一般意志2.0』のベクトルの箇所(p44,45)は一般意志とはこういうようなものだよといった理解を助けるものにすぎないとして読んだ。一般意志=ベクトルで表されるもの、としてはなかなか読みにくい。


(岩谷)

レジュメをブログ用に編集して以下に掲載する。

TDG第15回
東浩紀「一般意志2.0」読書会

 (4~10章)

4章(p.72~)
社会思想範囲内での「政治」と「公共性」をめぐる議論について
ハンナ・アーレントとユルゲン・ハーバーマスの二人、そして熟議民主主義についての説明がありました。いずれもコミュニケーションの重要性を訴えています。
そして著者は一般意志は熟議を必要しないと言う。

5章(p.80~)
 前回の章で社会思想の枠で考えるととても非常識であったルソーの考え方、一般意志ですが、いま現在起きている情報技術革命により「「実装」されつつある。」と著者は言っています。
例として、Google・「ユビキタス社会」のアイデア・Twitter・フォースクエアが挙げられていきます。個人個人のデータベースへの積極的な参加とでも言うのでしょうか、Twitterならばツイート、Googleならば検索、他にもブログを書くことだったり、フォースクエアでチェックイン、ニコニコ動画に投稿することなど各行為はそのデータベースを一層巨大なものとし、『もはや個々人の思いを超えた無意識の欲望のパターンの抽出を可能にする。』つまりルソーの言う「一般意志」を形成する・・・。

ここで個人的に気になった箇所を引用します。(余談)

『二十一世紀の社会は複雑すぎるうえに、その複雑さが新しい情報技術のおかげであまりにもそのまま可視化されてしまっている。(中略)もはや個人の「限定された合理性」を超えてしまっているのである。そのため、人々のコミュニケーションは日常的に麻痺し(以下略)』

なるほど納得です。引用前の文章では二十世紀の市民が言及されており、その例とすっきりとした対比で頷いてしまいます。コミュニケーションの場合で言えば、インターネットという知の結晶(「ターミナル」のほうがいいかな)がまず出来上がってしまっている前提がある。検索すればほとんどの情報が見つかる。個々の人々は自分の好きな情報を探し求めることができ、そしてその結晶の欠片(自分の好きな情報=例えば音楽)を自分がもとより持っている知の結晶の欠片とくっ付けている。いまいちメタファーが変で伝わるものも伝わらないかも分かりませんが、そうやって徐々に欠片を大きくしていった人が(仮に二人)が出会った時に二人の結晶の内に共通する欠片はいくつあるのか、ということです。それはインターネットがなかった時よりも少なくなったのではないだろうか。相手が何をどこまで知っているのかが予想がつかない。テレビでさえ見ていない人もいる。新聞もとらない人がいる。最近のニュースならば知っているだろうとなる。まず探り合いから始まるコミュニケーションに人は面倒だと思ったり疲れてしまったり、そしてまたインターネットへ・・・と、すでにわかっていることをくどくどと言われるほどつまらないものもありませんね。どこか勘違いしているような。

続けます。

ということで、共通の素地すらままならないようでは『アーレントとハーバマスが理想とした公共圏はそもそも起動しない。』のです。コミュニケーションに齟齬が発生する、とかお互いの解釈の前提が違うとかが考えられます。そして『一般意志2.0の思想のほうがまだ可能性はあると考える。』わけです。

6章
「ウェブ2.0」提唱者のひとり、ティム・オライリーについて語られました。ドイツの社会学者ノルベルト・ボルツ、そして「情報量の減少」。「心の動揺」ときて、無意識へ話題が移行します。
    
7章
『わたしたちは、自分たちが本当はなにを必要としているのか可視化する装置を必要としている。』
大変興味深い言葉です。「自分が自分の必要としているもの」ではないのですから。自分一人のことでさえ難しいのに何千何万という大衆の願望を叶えなくてはならないのが「政治」なんですね。

フロイト「無意識」の説明を挟みつつ。
『ネットが、無意識を記録するだけでなく、むしろそれを積極的に可視化する装置でもあることを意味している。』可視化する装置はネットである、と。まあさらに言えばいつかコンピュータという媒体をなくせたら利便性が上がり、装置としてより機能するかと思います。

『肯定も否定も最終的には同じ効果を持つ』次章で繋がります。
最後にGoogleのページランクを紹介。

8章
『公と私を対立を乗り越える「共」のプラットフォーム』これが前章で言及された『肯定と否定の対立の彼方にある無意識』とリンク。
データベースに一喜一憂しながらも一歩一歩しっかりと歩を進めていく、熟議とデータベースが補いあう社会。このあたりの内容(p.144の周辺)は一個人が変に内容を恐る恐る紹介するよりかは実際読んでもらったほうが面白いのでぜひ読んでみてください。
そして「制約条件」というワードが出てきます。

9章
可視化された無意識=一般意志の可視化を利用するという、一見不可能だと思えるこの発想の非現実さを少しでもなくすためにアメリカの建築家、クリストファー・アレグザンダーの「パターン・ランゲージ」が言及されます。その方法とは・・・。(二十六の要因。)

そしてまさに二十七枚目の地図として「利用者の欲望の地図」を重ねられる。
この二十七枚目が一般意志です。それは制約条件となり、道路であればそれを作る人に対して制限をかけることが出来るのです。

10章
『本書の中核的な主張はほぼ語り終えた。』

(11~15章)
11章
『政治の危機の本質は、社会が複雑になりすぎて、熟議への参加コストが跳ね上がってしまったことにある。』
そう思います。個人の能力の限界があって、分からないことも多いものだから、マニフェストだけ見比べて決めたりだとか、この人のほうがテレビでよく見るから投票しようだとか、安易なものになってしまう。これは広告を使ったほかの媒体でも言えることではないでしょうか。と書くと脱線していきいきそうなので別の機会に。

『政府内のすべての会議を「ニコニコ生放送」で公開しろ、と呼びかけているようなものである。』
これは五周年となったニコニコ動画の発展から見れば出来そうですね。ただ、利用されるインターネットが利用できるかどうか。つまりは対談などの場に利用されるニコニコ生放送が、もし専属のカメラマンなどを雇って国会中継などの会議をうつしたら、うつすために突撃したら、と考えると面白いかもしれない。でもそのような荒っぽいことが出来ないとしても、今日テレビで見られる国会中継をまずニコニコ生放送の場で提供してみたらどうでしょうか。この間Eテレの番組が云々といったニュースもあったことですし。

続きます。

『集合知はあくまでも「ツッコミ」のみに使うべき』
これは次章で挙げられるポピュリズムの政治家、彼らの演説を見れば何か分かるのだろうか。

12章
『社会の暴走を食い止める調整の役割』

以下の三つの図式が表されます。
・テレビ/ポピュリズムの政治家モデル
・密室/線量主義の政治家モデル
・ニコニコ生放送/民主主義2.0の政治家モデル

『本書が構想する未来社会は、欲望の噴出に戸惑い懊悩する思春期の成年のイメージが最も近い。』


アーレント「人間の条件」が出てきます。この本を始めとする政治系の書物を先に読んでおくと一般意志2.0はもっと面白く読めたんでしょうね。


13章
哲学者ローティについて、アイロニストについて。彼の主張は『公と私の関係をがらりと逆転することを意味している』ということ。

『「一般意志2.0」という題名が招く二つの誤解』
この部分をまず著者は訴えたかったのではないだろうか。

14章
ツイッターの説明。ヘーゲル的社会・ネットワーク的社会
『動物的に思わず、リツイートボタンをクリックしてしまう』という言葉が印象的。

ルソー フロイト グーグル ローティ ツイッター
そして、もう一つだけ新しい固有名。『ノージックが提唱した「ユートピアのためのフレームワーク」』
動物ではなく人間であるためにこそ必要とされる、動物的な最小国家論。あくまでもフレームワークである。

15章
『最終章では夢を語ってみたいと思う。』
『動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供する。』

『事故』
読書会の時も「これはちょっと都合がよすぎる」「いやこれはこの文章の前後を繋げるがために出てきたのだ」と意見が出ました。個人的にはこの事故は夢にしては飛躍しすぎていると思う。でもTwitterのコメントの中からそのようなことが起きる可能性はこの先あるのかもしれない。

『ゆるやかなコミットメントがきわめて重要な役割を果たすことになると考える。』

『本書はあくまでもエッセイである。決して学術書ではない。』
著者は一般意志2.0というまだ見ぬ未来社会を夢想し、現時点で可能な限りのイメージ図、つまり一般意志2.0の「設計図」をあらゆるものにとらわれない自由な発想で一冊にまとめたのだ。

『本書の記述が、少しでも未来の世界を作るために役立つのならば、筆者としてたいへん幸せに思う。』
自分の言う一般意志2.0に対する誤解も(取り上げることを忘れていたが)ルソーの「憐れみ」も、その全てをひっくるめて著者が言いたかったメッセージはこの言葉ではなかろうか。
 今後レファレンスとして用いられる「一般意志2.0」。文中で取り上げられる書物にも興味を持ちつなげて読む人も出てくることだろう。遥か未来では社会の礎を築いた「バイブル」になっているのかもしれない。それとも至って普通のエッセイ本の一冊として、消費され時代と共に消え去っていくのだろうか。
 いや、断じてそんなことはない。
 なぜなら、この本は「夢」を語る本であるからだ。夢は希望に満ちた明るいものなのだ。



おまけ:個人的な見解・感想

・これからのSNSについて考えてみたくなった。やっぱり「ログ」ものなのかな。jawboneのUPが個人的
 には気になります。
・内容ではなく著者についてのことだが、「リベラル」や「リバタリアニズム」やら◯◯イズムなどの
 政治用語(と言ってもいいのだろうか)がよく使われていて、政治にも造詣が深いのかと底の深さに
 驚いた。でも知らなかったらこの本書かないか、とそのうっかり加減に気づく。
・「夢」。最初から最後までとても明るい未来を描いていた。だから読んでいていい気分。
・社会は複雑になったからって全ての面で大衆になってはいけないだろうな。専門家はこれからも大切。
・サンタを信じている子はアイロニストなのか。
・166ページの「独裁の出現を肯定している」に疑問。厳密に言えば違うと思う。(後日追記予定)
・今思いついたのはテレビ番組の出演者に対する「カンペ」。これは一般意志ではないが制約条件には
 なっている。ニコニコ動画のコメントよりは大きいかな。

最後に一つ。
レジュメが内容の抜粋としょぼい見解のみのレジュメだっただけに構成に迷いました。そのまま載せてもいいのか戸惑う反面、一から書評をかけるほどの能力に長けているわけでもない。挙げ句の果てがこれでした。


(夫馬)