病室にて皆で12月30日を迎えました。
子供たちは寝静まり、父もうとうと。
私と叔母で、母のベッドを挟みながら
昔なつかし話を延々していました。

母は相変わらず下顎呼吸でしたが、
脈、呼吸数、サチュレーションともに変化なし
今後どうなっていくのか看護士さんに聞くと
脈が落ちてくるとのことでした。

母の手を握りながら、
楽しい話をしていました。
夜中2時を過ぎたあたりから
120ほどの脈が100くらいまで落ちてきて、
ちょっと気になるなと叔母と話し合い。
2時半には100を切り始め、
そこからは早かった。
どんどん脈が下がり50を切ることも多々。
その頃父も母に近づき話しかけ、
子供たちを起こし
最後のお別れしなきゃいけないよと、
私も叔母も泣いており、
4歳の次女は起きるなり泣いていました。
7歳の長女はとても感受性の強い子で、
その状況を飲み込みたくないのか茫然。
母の心拍モニターばかり見つめているので
何度も、母に話しかけてあげて、
と急かしてしまいました。
後で分かるのですが、
彼女には彼女なりの葛藤があった様で
純粋な心で現実を受け止めるのに
必死だったのかもしれません。

母は、何度か心停止を起こし、
呼び掛けるたびに復活するを繰り返し
それがもう7~8回続きました。
母の生命力!本当にすごい!と、
最後の最後まで諦めないことを
身をもって教えてくれました。

最期は本当に呼吸も心拍もとまってしまい
当直の医師が来られ3:45ご臨終と言われました。
医師が来るまで少し時間があったので
もう少し早かったかと思います。
最期のお別れみんな一緒にいれてよかった。

母の苦しい闘病が終わりました。

ただ思うことは、母はこんなはずじゃなかった
まだ第2の人生を楽しむ期待をもち、
6月までは乳癌の経過観察はあれど、
至って普通に生活をし、仕事に行き、
お出掛けを楽しんでいました。

7月に突如余命1ヶ月を告げられ
起きれなくなり、話せなくなり、
急激な悪化をたどり苦しい闘病。

医師の一年以上に及ぶ画像見落とし、
それに伴う誤診、
そして癌性髄膜炎の診断遅れ、治療の遅れ、
こういったことが無ければ
間違いなく母の最期は違った形だったはず。
ここまでのQOL低下を招き、
母から何も教わらないまま
別れが来てしまったこの現実は、
病院のミスが招いた結果だと思っています。
と同時に自らもっと勉強し
セカンドオピニオンに行くべきだった、
その後悔は尽きません。


生前最後の写真になってしまいました。

母に頼りっぱなしだった私は
今後どうやって生きていけば良いのでしょうか。